エベレスト
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また、一帯にはヒオドシジュケイニジキジベニキジオグロヅルキガシラウミワシチベットセッケイ、ヒマラヤハゲワシ(英語版)、モリフクロウコミミズクヒゲワシイワヒバリ、シロボシマシコ(英語版)、ベニハシガラスホシガラスイヌワシ、ムラサキツグミ(英語版)などの鳥類が生息し[15][17]、ヒマラヤハゲワシ、インドガンなどはエベレストを飛び越えることができる[16]

南側にセイクレッド・ヒマラヤ・ランドスケープ(英語版)(ネパール、インド、ブータン)という保護区があり、カンチェンゾンガ国立公園サガルマータ国立公園ランタン国立公園などもその域内にある[18]。北側のヤルンツァンポ川分水界まで広がるチョモランマ国家級自然保護区(英語版)(中国)は2004年にユネスコの生物圏保護区に登録された[13]
登頂史
遠征隊実現まで

1893年、探検家として知られ、政務官を務めていたフランシス・ヤングハズバンドと第5グルカ・ライフル連隊の勇将として鳴らしていたチャールズ・グランヴィル・ブルース (Charles Granville Bruce) 准将がチトラル(現在のパキスタン)のポロ球戯場でエベレスト登頂について話し合ったのが、具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるといわれる[19]。1907年にはイギリス山岳会の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案された[20]が、実現しなかった。しかし、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争に敗れたことで、イギリスが帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけていくことになる。遠征計画は第一次大戦の勃発によって先送りになるが、戦争の終結とともにイギリス山岳会と王立地理学協会エベレスト委員会を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、エベレスト遠征計画の具体化が始まった。
第1次遠征隊

1921年エベレスト委員会によって組織・実行。

第1次は登頂そのものでなく、登頂のための周辺調査とルート確認を目的として英国を出発。インドのカルカッタに上陸後、ダージリンからチベットを回り込んでエベレストを目指した。チベットのカンパ・ゾンでは、体調がすぐれなかったケラス博士が心臓発作で亡くなるというアクシデントに見舞われたが、遠征隊はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020 m)にいたるルートを確認するとともに、エベレスト周辺の詳細な地図を初めて作成することに成功して帰国した。
参加者

チャールズ・ハワード=ベリー
(Charles Howard-Bury) 中佐 - 隊長。中央アジアを巡回した経験を持つ歴戦の英雄。当初はグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将が隊長に適任とみられたが、軍務に影響があるという理由で回避された。

アレクサンダー・ケラス (Alexander Kellas) 博士 - カシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であった。

オリヴァー・ウィーラー (Oliver Wheeler) - 医師。

ヘンリー・モーズヘッド (Henry Morshead) - 測量班としてのちにインド測量局の長官をつとめることになる。

アレクサンダー・ヘロン (Alexander Heron) - インド測量局局員。

ハロルド・レイバーン (Harold Raeburn)、 - 50代のベテラン登山家。登攀部隊のリーダー。

ジョージ・マロリー - 若手登山家として知られていた。

ジョージ・フィンチ - オーストラリア生まれ。同じく若手登山家として知られるが、直前になって健康を理由にメンバーから外された。

ガイ・ブロック (Guy Bullock) - フィンチに代わるマロリーの登山仲間で、マロリーの推薦によって選ばれた。

第2次遠征隊

1922年組織・実行。

3度の頂上アタックを行った。7620 mの地点に設けられた第5キャンプから第1次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は8225 m[注 2]という当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第2次アタックチームは酸素ボンベをかついで5月27日に8321 mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。ブルースの持っていた酸素器具の不調で第2次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第3次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コル目指して斜面を歩いているとき、雪崩が発生して7名のシェルパが落命したため、一行は失意のうちにベースキャンプに戻り遠征は終了した。
参加者

チャールズ・グランヴィル・ブルース准将 - 隊長として宿願であった。

エドワード・リーズル・ストラット
(Edward Lisle Strutt) 大佐 - 副隊長。

ジョージ・フィンチ - 前回不参加者。

ハワード・サマヴィル (Howard Somervell) 博士 - 前回不参加者。

エドワード・ノートン - 前回不参加者。

トム・ロングスタッフ - 同地方の地理にも詳しい医師。

アーサー・ウェイクフィールド (Arthur Wakefield) 博士 - 同じく医師。

ジェフリー・ブルース (Geoffrey Bruce) 大尉 - ブルース准将の甥でやはりグルカ連隊所。

ジョン・モリス (John Morris) 大尉 - ブルース大尉の同僚。

マロリー - 前回のメンバー。

モーズヘッド - 前回のメンバー。

ジョン・ノエル (John Baptist Lucius Noel) 大尉 - 遠征隊の模様を映写機で撮影することになる。

第3次遠征隊

1924年組織・実行。

2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路でエベレストを目指した。4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7000 m付近に第4キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。ノートンはサマヴィルとともに酸素ボンベなしで頂上を目指し、途中から一人で北壁をトラバースし標高8572 mに到達、人類の最高到達記録を更新したが引き返した。マロリーは6月8日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第6キャンプを出発、酸素ボンベを使用して山頂を目指した。2人はこのまま行方不明になり、第3次遠征隊は山を下りた。さらに許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山の許可が出なかった[23]
参加者

チャールズ・ブルース准将 - 第2次同様に隊長だったが、ダージリンからエベレストまでの道中で
マラリアのため離脱。エベレスト登山はこれが最後となり、1939年に死去した。

ノートン大佐 - 副隊長だったが、ブルース准将の離脱で隊長となった。

マロリー - 経験者。

ジェフリー・ブルース - 経験者。

サマヴィル - 経験者。

ベントリー・ビーサム (Bentley Beetham)

E・シェビア (E. O. Shebbeare)

ノエル・オデール - 地質学者。

アンドリュー・アーヴィン

その他

第4次遠征隊から第二次世界大戦前まで

1933年、イギリス第4次遠征隊。隊長ヒュー・ラットレッジ (Hugh Ruttledge)、隊員にはフランク・スマイス (Frank Smythe)、ジャック・ロングランド (Jack Longland)、パーシー・ウィン=ハリス (Percy Wyn-Harris)、レイモンド・グリーン (Raymond Greene)、ローレンス・ウェイジャー、エドワード・シェビア (Edward Shebbeare)、トム・ブロックルバンク (Tom Brocklebank)、1922年隊にも参加したコリン・クロフォード (Colin Crawford) らがおり、のちに遠征隊の隊長を務める歴戦の登山家エリック・シプトンもその中に含まれていた。この遠征では高度8570 mが最高で登頂はできなかったが、ウィン=ハリスが頂上近くでアーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になる。


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