エフィム・プチャーチン
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しかしその途中、1855年1月15日(安政元年11月27日)、宮島村(現富士市)付近で強い風波により浸水し航行不能となった。乗組員は周囲の村人の救助もあり無事だったが、ディアナ号は漁船数十艘により曳航を試みるも沈没してしまう。プチャーチン一行は戸田に滞在し[4]、幕府から代わりの船の建造の許可を得て、ディアナ号にあった他の船の設計図を元にロシア人指導の下、日本の船大工により代船の建造が開始された。造船中ロシア兵が亡くなり、先の津波で亡くなったロシア兵とともに現在の下田市にある玉泉寺 (下田市)に埋葬され、墓も現存する。

1855年1月1日(嘉永7年11月13日)、中断されていた外交交渉が再開され、5回の会談の結果、2月7日(安政元年12月21日)、プチャーチンは遂に日露和親条約の締結に成功する。

1855年4月26日(安政2年3月10日)に約3ヶ月の突貫工事で代船が完成、戸田村民の好意に感激したプチャーチンは「ヘダ号」と命名した。ヘダ号は60人乗りで、プチャーチン一行が全て乗船することが出来ない大きさであったため、プチャーチンは下田に入港していたアメリカ船Caroline Le Footeを雇い、前月に159名の部下をペトロパブロフスク・カムチャツキーへ先発させていた。ヘダ号完成後の5月8日(安政2年3月22日)、プチャーチンは部下47名と共にヘダ号に乗り、ペトロパブロフスクに向けて出港した。5月21日、ペトロパブロフスクに入港したが、既に英仏連合軍は撃退されロシア軍の防衛隊も退却に成功していたため(ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦参照)、さらに航海を続け、宗谷海峡を通って、6月20日にニコラエフスクに辿り着いた。同地から陸路を進み、11月にペテルブルクに帰還を果たした。

同年7月には残りの乗組員300名ほどがドイツ船Gretaでロシア領を目指したが、途中でイギリス船に拿捕され捕虜となっている。
日露修好通商条約・天津条約の締結

1856年から1857年にかけてクロンシュタット軍事知事を務めた[5]後、9月21日(安政4年8月4日)に軍艦アメリカ号で再度長崎に来航、水野忠徳らと交渉し、10月27日(安政4年9月10日)に日露追加条約を締結した。12月には太平洋艦隊司令長官に任命され、アムール湾の海岸を調査した。

この当時、清ではアロー戦争が勃発しており、英仏連合軍が広州、天津を占領していた。プチャーチンはこの機に乗じて、調停の名目で介入し、1858年6月13日、天津において清との間に天津条約を締結した。

その後、再び日本に向かい1858年7月30日(安政5年6月20日)、神奈川に入港。8月12日(安政5年7月4日)、当時外国使節の宿館であった芝愛宕下の真福寺に入った。同所において幕府側と交渉を行い、8月19日(安政5年7月11日)、日露修好通商条約を締結した。翌日、江戸城で将軍家世子徳川慶福(家茂)に謁見した後、本国に帰国した。
政治家晩年のプチャーチン

日本と条約を結んだ功績により、1859年伯爵に叙され、海軍大将元帥に栄進した。1861年7月2日に教育大臣(国民啓蒙大臣)に任命される。在任中は大学の講義出席義務化や教師に2年間神学校での教育を受けることを命じるなどの教育改革を行ったが、学生運動や革命運動を弾圧したため1862年1月6日に罷免され、政治家としての評判は芳しくなかった。しかし、プチャーチンは罷免後もロシア科学アカデミー名誉会員やロシア帝国国家評議会議員などの要職を務め、また1881年(明治14年)には日露友好に貢献した功績によって日本政府から勲一等旭日章が贈られた。1879年12月18日に妻メアリーが死去した後は、ロシアを離れパリに居住した。1883年5月に聖アンドレイ勲章(英語版)を授与され、10月16日に死去した。

プチャーチン死後の1887年(明治20年)、娘のオリガ・プチャーチナ女伯(1848年 - 1890年)が戸田村を訪ね、プチャーチンの遺言により、当時の村人の好意に感謝して100ルーブルの寄付をしている。その後の歴史の激動の中にも交流は続き、2008年(平成20年)にも日露修好150年を祝っている[6]
人物

幕府の全権としてプチャーチンと交渉に当たった外国奉行・川路聖謨は、アメリカ使節ペリーなどが武力を背景に恫喝的な態度を取っていたのとは対照的に、紳士的に日本の国情を尊重して交渉を進めようというプチャーチンの姿勢に大変好感を持った。川路はプチャーチンのことを「軍人としてすばらしい経歴を持ち、自分など到底足元に及ばない真の豪傑である」と敬意をもって評している。なおプチャーチンも報告書の中で、川路について「鋭敏な思考を持ち、紳士的態度は教養あるヨーロッパ人と変わらない一流の人物」と評している[7]
関連史料

多田好問『岩倉公実記
』、1906年 - ウィキソース

白石仁章『プチャーチン 日本人が一番好きなロシア人』新人物往来社、2010年 ISBN 4-404039-48-4

金学俊(朝鮮語版)「西洋人の見た朝鮮」金容権山川出版社 2014年

脚注[脚注の使い方]^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff 2020年12月2日閲覧。 
^ “The Spectator, 第18巻 F.C. Westley, 1845”. 2019年3月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月13日閲覧。
^ 呂博東 (1994) 「巨文島の自然地理的環境と歴史的背景」『日本植民地と文化変容 - 韓国・巨文島』所収49-50頁に一部が引用されている。
^ 滞在中の1855年1月29日(嘉永7年12月11日)、下田港にフランスの捕鯨船ナポレオン号が入港した。プチャーチンらはこの船を移乗攻撃により拿捕・奪取して帰国用の船とすることを企て、武装水兵により襲撃隊を編成し、大型カッターで戸田から下田に向かわせたものの、到達前にナポレオン号が出港したため襲撃は実現しなかったという出来事もあった(奈木盛雄 『駿河湾に沈んだディアナ号』 元就出版社、2005年、285-286頁)。
^ “The Origin of Modern Shipbuilding: Invitation to Heda” (2008年). 2011年9月30日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2009年11月15日閲覧。
^ “ ⇒日露修好150周年記念式典。「プチャーチン提督のゆかりの方と江戸幕府川路聖謨(としあきら)勘定奉行の子孫」も参加。”. 首相官邸ホームページ. 2013年1月25日閲覧。
^ プチャーチンに関する日本側の史料として『魯西亜布怡廷応接記』(ろしあぷちゃあちんおうせつき、安政4年成立、京都大学蔵)などがある。

関連項目

イワン・ゴンチャロフ - 随行記に『日本渡航記』、高野明・島田陽共訳、雄松堂書店新異国叢書、1969/講談社学術文庫 2008

幕末のスパシーボ

アレクサンドル・モジャイスキー - 訪日艦隊に随行。のちに蒸気飛行機の開発者として知られる。

公職
先代
エフグラフ・コワレフスキー 教育大臣
1861年 - 1862年次代
アレクサンドル・ゴロヴニン

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