エピダムノス
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5年後の1273年頃、ディラキウムは大地震に見舞われたがすぐに復興し、カルロ1世ダンジョの孫ジョヴァンニ・ディ・グラヴィーナが治める独立した公国となった。後にジョヴァンニの同族でラテン帝国皇帝を僭称していたターラントフィリッポ1世・ダンジョの支配を受けた。1333年、市はフランク系のアカイア公国に併合されるが、領土を拡大してきたセルビア王国の王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン1336年に占領された。ウロシュが1355年に死ぬと、市はアルバニア貴族トピアス家(Thopias)に支配されるようになった。

1392年ヴェネツィア共和国が市を掌握し、アルバニア・ヴェネタ(現在のモンテネグロ沿岸から北部アルバニア沿岸部を指す)の一部であるドゥラッツォとして知られるようになった。1466年オスマン帝国スルタンメフメト2世軍に包囲され、これを防ぐものの、1501年に陥落した。

ドゥラスは、早くに完全にキリスト教化されていた。58年頃、市には司教座が置かれ、449年には大司教座に昇格していた。現在は、正教会府主教座が置かれている。トルコ支配下では、住民の多くがイスラム教に改宗し、多くのモスクが建てられた。市名はドゥラチ(D?rac)に改名し、オスマン帝国下で繁栄せず、その重要性もひどく衰退した。19世紀半ばには、人口はわずか200世帯1,000人となっていたと言われる。20世紀初頭に外国の訪問団によってその低迷ぶりが記された。『壁は破損してボロボロである。平坦な木が古い東ローマ時代のシタデルの巨大な廃墟の上に生えている。かつて等しく広く便利で安全だった港は、徐々に沈泥で埋まってきている。』[3]
20世紀ドゥラスにあるゾグー1世のかつての邸宅

ドゥラスは、1878年-1881年1910年-1912年の二度、アルバニア国民自由運動の活発な都市であった。初代アルバニア首相イスマイル・チェマリ(en:Ismail Qemali)は、1912年11月26日にアルバニア国旗を掲揚した。しかし、第一次バルカン戦争勃発の三日後にセルビア人勢力によってドゥラスは占領された。1913年3月7日、初代アルバニア公ヴィルヘルム・ツー・ヴィートのもとで、ドゥラスは独立国家アルバニア最初の首都となった[4]1914年に、ここに一時政府が置かれた。

第一次世界大戦中の1915年、ドゥラスはイタリア王国に占領され、1916年から1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国に占領されていた。1918年10月、連合国によってドゥラスは陥落させられた。アルバニアの宗主権が復帰すると、1918年から1920年3月まで、ドゥラスは国の首都であった。イタリアからの投資で経済ブームを経験し、1927年にアルバニア王ゾグー1世によって港が現代的に再建されると主要海港に成長した。

1926年の地震で市の一部が損害を受け、再建された結果さらに現代的な様相を得た。第二次世界大戦では、ドゥラスとアルバニア全土は1939年から1943年までイタリア王国に併合された(この時、市名はドゥラッツォと呼ばれた)。イタリア撤退後、ナチス・ドイツが侵攻し1944年まで支配した。ドゥラスの海港としての戦略上の価値は、枢軸国連合国どちらからも軍事的標的とされた。最初にイタリアが1939年4月7日に上陸した場所は、イタリアが不運なギリシャ侵攻のため乗り出した場所でもあった。市は戦時中、連合国側の激しい空爆で損害を受け、港湾設備は1944年に退却するドイツ軍によって爆破された。

エンヴェル・ホッジャ共産主義体制下で、市は急速に再建が進み、一帯に多種の重工業施設がつくられ、港が拡張された。1947年、アルバニア初の鉄道の終点となった。

1990年に共産主義体制が崩壊すると、ドゥラスはアルバニアから出国しようとする移民が多数集中する場所となった港では船がシージャックされ、銃を突きつけられてイタリアへ出航した。1991年8月の一ヶ月だけで、20,000人もの人々がこのやり方でイタリアへ出国していった。イタリアは軍事的に干渉し、港湾地帯をその支配下に置き、ドゥラスは欧州共同体の食料援助企画『ペリカン作戦』の中心地となった。

1997年、アルバニアは無限連鎖講の崩壊にともなう無政府状態に陥り、国家経済が破綻した。イタリア主導の和平勢力がドゥラスとその他のアルバニア都市を復興のため、議論の余地のある軍配備を行った。アルバ作戦の真の目的は、イタリア移住へのルートとしてアルバニアの港を使い続ける経済難民を排除するためであるという、暗示が広められたにもかかわらずである。

1999年コソボ紛争の間、ドゥラスはコソボ難民110,000人の一部を受け入れた。アルバニアにある人道支援団体による人道支援施設の多くが運営されていたからである。
21世紀

2019年9月21日マグニチュード5.6の地震が発生。首都ティラナでは49人が負傷した。
気候

ドゥラスは一般的に地中海性気候である。1月の平均最低気温は5℃で、7月から8月の平均最高気温は28℃である。乾季は6月、7月、8月で、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}平均降雨量は1mm未満、残りの月平均降雨量は2mm以上ある[要出典]。

ドゥラスの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)12
(54)13
(55)14
(57)18
(64)21
(70)25
(77)28
(82)28
(82)25
(77)22
(72)16
(61)13
(55)19.6
(67.2)
平均最低気温 °C (°F)5
(41)6
(43)8
(46)11
(52)15
(59)19
(66)21
(70)21
(70)18
(64)14
(57)11
(52)7
(45)13
(55.4)
出典:MSN Weather[5]

産業

海港を持つドゥラスは今も西欧とつながる重要な都市である。バーリといったイタリアの港湾都市とフェリー定期便が往復している。ドックヤードと同様、市は重要な造船所と産業を抱える。製革業、プラスチック製造、タバコ製造が知られる。近郊の町村ではワインと多種の食料が生産される。
観光

ドゥラス図書館、アレクサンデル・モイシウ劇場、エストラダ劇場、人形劇劇場、フィルハーモニック・オーケストラといった文化施設・団体を抱える。海岸通りの考古学博物館とその背後のビザンツ期の城壁(6世紀)、市庁舎そばの広大な円形劇場跡(1?2世紀)、歴史博物館もある。

市内の海水浴場は外国人観光客、国内の観光客からも人気を集めている。年間600,000人の観光客が訪れる。首都ティラナから多くのアルバニア人観光客がやってきて、ドゥラスの海水浴場で夏の休暇を過ごす。コソヴォから訪れるアルバニア人も多い。また、イタリアのバリブリンディジからの定期フェリー便が就航している。

近年ティラナとドゥラスをつなぐ現代的な高速道ができあがったため、ティラナから自動車で片道30分で来ることができるようになった。ティラナとは毎日10本の鉄道路線でつながっている。

アルバニアの他所同様に、数多いコンクリート製掩蔽壕(ブンカー)が旧独裁政権時代にドゥラス周辺に据えられた。ブンカーは市内の砂浜沿い100メートルから150メートル間隔でみることができる。それらは、西側勢力とワルシャワ条約機構両方の軍からの攻撃から国を守る目的で据えられた。アルバニア国内では、今も概算で700,000個のブンカーがある。
姉妹都市

イスタンブールトルコ

脚注[脚注の使い方]^ Wilkes, J. J. The Illyrians, 1992,ISBN 0631198075,page 96,"From Bouthoe to Epidamnus, a Greek city, the ..."
^ 『地球の歩き方 2017?18 中欧』ダイヤモンド・ビッグ社、2017年、419頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-478-06007-0


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