エノケン
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ミュージカル風に話が進行するエノケン映画は、日中戦争が激化し、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦が勃発した翌年の1940年(昭和15年)まで、ほぼ年に3?4本は制作された。『エノケンの千万長者』『エノケンの頑張り戦術』といった現代劇、『エノケンの近藤勇』『エノケンのどんぐり頓兵衛』『エノケンのちゃっきり金太』『エノケンの猿飛佐助』『エノケンの法界坊』『エノケンの弥次喜多』『エノケンの鞍馬天狗』『エノケンの森の石松』『エノケンのざんぎり金太』といった時代劇はいずれもヒットとなった。ほとんどエノケン一座でキャスティングされ、人気を博した。その後、中国ロケを敢行し、人気俳優らと共演して1941年(昭和16年)に封切られた映画『エノケンの孫悟空』も大ヒットとなった。

しかし、同年末の対英米開戦などの第二次世界大戦の激化によってコメディ映画の制作数は激減し、その他の映画においても国策に賛同する役柄を演じさせられることが多くなり、そのキャリアと人気は停滞を余儀なくされた。酒席で田岡一雄の顔に接吻する榎本健一
1951年昭和26年)
喜劇界の重鎮

終戦後、笠置シヅ子がエノケンの相手役を務めたが、同コンビは有楽座の舞台を連日満員にし、映画でも『エノケンのびっくりしゃっくり時代』『歌うエノケン捕物帖』『エノケン・笠置のお染久松』などがヒット作となった。また、過去に「犬猿の仲」といわれた古川ロッパと1947年4月東京有楽座『弥次喜多道中膝栗毛』で初共演。直後の映画『新馬鹿時代』前編後編でも榎本のヤミ屋を演じて古川の警官と共演。ともに話題を呼んだ。

舞台で孫悟空を演じた際に、如意棒を左足に落としたことが原因で脱疽を発病。1952年(昭和27年)、再発したのは右足で、足の指を切断することになった。その後は主に舞台に活躍の場を移し、1954年(昭和29年)には古川ロッパ、柳家金語楼と「日本喜劇人協会」を結成。自ら会長となり、喜劇人協会の公演などで軽演劇を演じ続けた。1960年(昭和35年)には、56歳で紫綬褒章を受章した。また、同年に第5回テアトロン賞を受賞。

ところが1957年(昭和32年)にはまだ26歳だった長男の^一を失うとともに1962年(昭和37年)には病魔が再発し右足を大腿部から切断。そして失意から自殺未遂を繰り返すなど私生活では次々と不幸に見舞われた。しかし、後妻の献身的な看護と、病床を訪ねた喜劇王ハロルド・ロイドの「私も撮影中の事故で指を失いました。ハリウッドには片足を無くして義足で頑張っている俳優がいます。次に日本に来る時はあなたがまた舞台や映画で活躍している事を確信しています」という励ましにより、生きる気力を取り戻した。

その後、精巧な義足を得て、舞台・映画に復帰。1966年(昭和41年)には芸術祭奨励賞受賞。榎本はその後も、この義足にいろいろ仕掛けを施して、義足を使った芸も試している。
晩年

怪我の悪化やテレビジョンの人気などにより、晩年は舞台活動も少なくなったが、それと比例してテレビでの活躍が増えドラマ「おじいちゃま、ハイ」や歌番組出演、「渡辺のジュースの素」「サンヨー・カラーテレビ」などのコマーシャルソングで話題を集めた。一方、映画演劇研究所を開設して後進の育成指導に勤めている。面倒見もよく、1960年代大阪から上京した大村崑は、「当時、関西喜劇人に対する蔑視が強い雰囲気の中、榎本先生だけはとても温かく迎えてくださった」と述懐している。

長年の飲酒癖で肝臓を患うなど体調を崩していたが、1969年11月の台湾巡業中に、エージェントに出演料を騙し取られ、この時の精神的ダメージで体調がさらに悪化した。そんな中で、同年12月に帝国劇場で公演された『浅草交響樂』の『最後の伝令』で、台湾公演から帰国後、空港から駆け付け車椅子姿で演出を担当する。自身、90度で倒れる演技指導をして起き上がれないまま涙を浮かべて「『これくらいの気持ちで悲劇を演じなきゃこれは喜劇にならないんだよ…大悲劇として演じなけりゃお客の目や耳にとどいても、心にとどく悲劇にはなんねえよ。』と叫んだ」と出演した財津一郎は語っている[1]
死去

「病院で年を越すのは嫌だ」と主張して病院に行くことを拒んでいた[2]が、年が改まった1970年(昭和45年)の元旦に激しく体調を崩したため周りの者の勧めもあり神田駿河台にある日大病院に緊急入院、3日後の1月4日には昏睡状態に陥り、更に3日後の1月7日の午後2時50分頃に肝硬変により死去した。65歳没[3]。最後の言葉は「ドラが鳴ってるよ、早くいかなきゃ」だったという[4]

死後、勲四等旭日小綬章を受章。戒名は天真院殿喜王如春大居士。墓所は港区西麻布長谷寺にある。
エピソード

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敗戦直前に撮影された、「勧進帳」のパロディ映画「虎の尾を踏む男達」(監督・黒澤明)に出演。ラストシーンの跳び六法は、1934年に二代目市川左團次の紹介で川尻清潭から教えてもらったものであった[5]

映画ロケ先の妙義山麓で菊谷栄の戦没を聞かされ、号泣したが、帰京の列車内でもウイスキーを飲みながら泣き続けていた[6]

主演映画作品の一つ、『エノケンの孫悟空』(東宝)は日本特撮の雄である円谷英二が製作に携わっている。

人気絶頂期、「エノケソ」、「土ノケン」などと名乗る偽物が全国各地を廻り活躍した[7][8][9][10]


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