エニウェトクの戦い
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エニウェトクの戦い(エニウェトクのたたかい)は、第二次世界大戦(大東亜戦争)中の1944年2月18日から2月23日にかけて戦われた、日本軍アメリカ軍マーシャル諸島エニウェトク環礁を巡る戦い。アメリカ軍の作戦名はキャッチポール作戦 (Operation Catchpole)。一連のギルバート・マーシャル諸島の戦いにおいて事実上最後となる主要な戦闘であり、この戦いと支援作戦であるトラック島空襲以後、マリアナ諸島より東の地域から日本の航空兵力と重要拠点としての価値が一掃される事となった[3]

ここではエニウェトクの戦いの後にウォッジェジャルートミリマロエラップの各環礁を除くマーシャル諸島各地で行われた掃討戦についても簡単に記述する。
背景「クェゼリンの戦い」も参照

1943年末頃になると、ソロモン諸島方面はほぼ日本軍の支配権は失われた。アメリカ軍は、日本本土攻撃の基地となるマリアナ諸島攻略を目指し、次なる攻略の主目標として中部太平洋・マーシャル諸島方面を指向した。そのため、手始めに1943年11月にはギルバート諸島マキン環礁タラワ島を攻略した(ガルヴァニック作戦)。年変わって1944年1月30日には、マーシャル諸島の1月31日から2月4日にかけてクェゼリン環礁攻略が行われ、日本軍の防衛の最前線であったマーシャル諸島は無力化された。また、アメリカ軍はクェゼリンの戦いの最中にマジュロ(メジュロ環礁)を無血占領し、有力な根拠地とした。

エニウェトク環礁は、マーシャル諸島とマリアナ諸島の間にあり、拠点として適していた。アメリカ軍はエニウェトク環礁を日本本土からマーシャル諸島へ新手の航空兵力を送り込む中継点と見なしており[4]、また、トラック諸島制圧とマリアナ諸島攻略のための[5]飛行場および泊地の確保のため、侵攻することを計画した。しかし、アメリカ軍の見立てとは違って、日本軍による島の防衛体制は、1943年の時点までは手薄だった。これは、アメリカ軍の攻撃は最初はマーシャル諸島南西部であると日本軍が思っていたためであり、事実アメリカ軍はそこを攻撃していた。また、何らかの軍事施設を建設し始めたのは1942年11月の事であり、1943年3月には滑走路が完成した[6]。地上兵力は、第六十一警備隊分遣隊による監視哨が1943年1月に設けられたのが最初で[6]、その他航空要員が50名程度いた[6]。ところが、マキンとタラワの陥落の後、エニウェトクにおいても兵力増強の必要性が感じられ、1944年1月4日には満州から陸軍の海上機動第一旅団主力(兵力約2,700名)が移駐した。守備隊は環礁内のエンチャビ島、メリレン島、エニウェトク島に配備され、司令部はメリレン島に置かれた[6]。移駐に伴い、第六十一警備隊分遣隊は海上機動第一旅団の指揮下に入る事となった[7]。旅団長の西田祥実少将は移駐に先立って、在トラックの第四艦隊小林仁中将)より守備要領の策定を令され[8]、エニウェトク到着後はすぐに陣地の構築を開始。しかし、エニウェトク環礁はサンゴ礁の小島であり、そのうちエニウェトク島は砂地であったため地形的に陣地の構築は非常に困難だったが[9][10]、地下に掩体を構築して坑道で連結させる態勢にはなっていた[9]。資材は主にエンチャビ島に保管されており[9]、メリレン、エニウェトク両島にも分配して陣地構築を促すことになっていたが、その前にアメリカ軍の上陸を迎えたのである[9]

アメリカ軍は前述のようにエニウェトク環礁をトラック諸島制圧とマリアナ諸島攻略の拠点として侵攻を計画していたものの、当初の計画では5月11日に上陸作戦が行われることになっていた[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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