エドワード8世_(イギリス王)
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1910年5月6日にロスシー公並びにコーンウォール公、同年6月23日にプリンス・オブ・ウェールズ並びにチェスター伯となり、翌1911年7月13日にウェールズカーナーヴォン城で叙位式を行った。その際、ウェールズ語で答辞を述べ、これは以降のプリンス・オブ・ウェールズの答辞として定着することとなる。

これと相前後して第一次世界大戦が勃発し、に志願できる最低限の年齢に達していたエドワードは、軍への入隊を熱望し、1914年6月に陸軍グレナディアガーズに入隊、自らを一兵士として最前線に派遣するよう直訴した。しかし、陸軍大臣であるホレイショ・キッチナーが、「王位継承権第1位にあるプリンス・オブ・ウェールズが捕虜となるような事態が起こればイギリスにとって莫大な危害が及ぶ」との懸念を示したことから、拒否されることとなった。

それでも、エドワードは最前線を可能な限り慰問に訪れ、これにより1916年にはミリタリー・クロスを授与された。この事は、後に退役軍人の間で大きな人気を得ることに繋がったが、彼自身は「僕は、この勲章にちっとも相応しくない人間だ。戦わず、命の危険を味わう事も無く、メダルを付けるなんて恥ずかしい。僕よりも勲章を受けるべき勇士は、幾らでも居るのに」と嘆いたという。1918年には空軍で初めての飛行を行い、後にパイロットのライセンスを取得した。

1922年(大正11年)来日(詳細後述)。

大戦後は、海外領土における世論が宗主国イギリスに対して反発的になるのを防止すべく、自国領植民地を訪問した。その一方で世界各国を歴訪し、訪問先では度々絶大な歓迎を受け、ロイド・ジョージ首相からは「私たちの最も素晴らしい大使」と評された。

また、失業問題や労働者の住宅問題に関心を寄せ、いわゆる「平民」や一兵卒のなかに飛び込んで、気さくに言葉を交わし、王族の人間としては最初に煙草を吸っている(喫煙する)ところを新聞社に撮影させたり、ラジオ放送に出演したことでも知られている。他にも、オックスフォード大学在学中には、キャンパス内でバンジョーを弾きながら「赤旗の歌」(王制を否定する共産主義の歌)を歌ったり、ロンドンの高級レストランでオーストラリア国防軍の兵隊達が店員から食事を拒否されている場面を目の当たりした際は、兵隊全員を自分のテーブルに招いて食事を振舞った、などといったエピソードもあり、マスコミからは「比類なき君主制度のPRマン」などと評されるなど、国内外を問わず大変な人気者となった。

しかし一方で、オーストラリアを訪問した際に先住民アボリジニのことを「私がこれまでに見た生物での中でも、最も醜悪な容姿をしている。彼らは人間の中でも最もに近い」などという人種差別そのものの発言をして、物議を醸したこともあった。ウェールズ大公エドワード(1932年)

また、刺繍キツネ狩り乗馬バグパイプの演奏、ゴルフガーデニングなど非常な多趣味で知られていただけでなく、ヨーロッパでも屈指のプレイボーイとしても有名で、14年間愛人関係にあったフリーダ・ダドリー・ウォード自由党庶民院(下院)議員夫人をはじめとして、貴族令嬢から芸能人まで交際相手は幅広かった。また、黒人歌手のフローレンス・ミルズがプリンス・オブ・ウェールズとの関係を「あなたにあげられるもの、それは愛だけ」と歌って、一躍人気歌手の仲間入りを果たしたり、エドワードとの赤裸々な情事を綴ったテルマ・ファーネスとその妹による暴露本がベストセラーになるなど、その美男子ぶりと派手な女性遍歴から「プリンス・チャーミング」や「世界で一番魅力的な独身男性」などと評されたこともあった。

そんな中、アメリカ人既婚者女性ウォリス・シンプソンとの交際が1931年頃から始まる。気さくな性格で、母親からの愛情に恵まれないまま育ったことから年上の女性や人妻からの温もりを求めがちだったエドワードにしてみれば、自由奔放かつ博識で(実際には年下であったが)母性を感じさせるウォリスの存在は大変に魅力的であり、彼女との結婚を真剣に検討するようになる。

しかし、ウォリスは離婚歴を持ち、また交際当時にはれっきとした人妻であった。しかもイングランド国教会では離婚は禁じられているにもかかわらず、エドワードは無理にウォリスを離婚させて王太子妃として迎え入れようとしていた。この行為は将来イングランド国教会首長兼務の連合王国国王(イギリスの君主)となる「プリンス・オブ・ウェールズ」としての立場上許されることではなく、階級社会にあるイギリスの世論も身分を問わず国民大多数がこの交際と将来の成婚に反発した。この問題に悩まされた父国王ジョージ5世は、人妻ばかりと交際し続けるエドワードの性癖を本気で軽蔑し、2人の間には言い争いが絶えず、1935年9月にカンタベリー大主教コズモ・ラングと協議を重ねたが結論は見出せず、「自分が死ねば、1年以内にエドワードは破滅するだろう」と言い残した。
国王時代ユーゴスラビアでウォリスとともに休暇を過ごすエドワード8世(1936年)詳細は「エドワード8世の退位」を参照

1936年1月のジョージ5世の崩御後、独身のまま「エドワード8世」として王位を継承し、即位式にはウォリスが立会人として付き添った。しかし、王室関係者はウォリスを「ただの友人」扱いをしたため、エドワード8世はウォリスに対して「愛は募るばかりだ。別れていることがこんなに地獄だとは」などと熱いまでの恋心を綴ったラブレターを送ったり、これ見よがしにウォリスと同年の8月から9月の間に王室の所有するヨットで海外旅行に出かける、ウォリスと共にペアルックのセーターを着て公の場に登場する等アピールを繰り返した。しまいには、スタンリー・ボールドウィン首相らが出席しているパーティーの席上で、ウォリスの夫アーネストに対して「さっさと離婚しろ」などと恫喝した挙句に暴行を加えるなどといった騒ぎまで引き起こした。

また、ウォリスも10月27日に離婚手続きを済ませいつでも王妃になれるよう準備をしたが、エドワードとの関係を持ちながら、同年8月より駐英ドイツ大使となったヨアヒム・フォン・リッベントロップとの関係があったと取りざたされた上に、エドワード8世はアドルフ・ヒトラーベニート・ムッソリーニファシストに親近感があるような態度を取り、この言動は保守党内における抗争の火種にまで発展することとなった。

エドワード8世はウィンストン・チャーチルと相談しながら、「私は愛する女性と結婚する固い決意でいる」という真意を国民に直接訴えようと、ラジオ演説のための文書を作成する準備をしたが、ボールドウィン首相は演説の草稿の内容に激怒し、「政府の助言なしにこのような演説をすれば、立憲君主制への重大違反となる」とエドワード8世に伝えた。チャーチルは「国王は極度の緊張下にあり、ノイローゼに近い状態」であるとボールドウィン首相に進言したが、ボールドウィン首相はそれを黙殺し、事態を沈静化させるために意を決し、1936年11月にエドワード8世の側近である個人秘書のアレグザンダー・ハーティングを呼び寄せてエドワード8世のもとに派遣し、「王とシンプソン夫人との関係については、新聞はこれ以上沈黙を守り通すことはできない段階にあり、一度これが公の問題になれば総選挙は避けられず、しかも総選挙の争点は、国王個人の問題に集中し、個人としての王の問題はさらに王位、王制そのものに対する問題に発展する恐れがあります」という文書を手渡し、王位からの退位を迫った。エドワード8世と3人の弟達のサインが記入された退位文書

この文書をきっかけにエドワード8世は退位を決意し、12月8日に側近に退位する覚悟を決めたことを伝えた。イギリス国内では、7日頃からエドワード8世がウォリスとの結婚を取り消すことを発表するだろうとの噂が流れていたが、9日の夜頃に一転して、国民の間でも退位は確実との情報が流れて、国内には宣戦布告をも上回る衝撃が走ったといわれている。12月10日に正式に詔勅を下し、同日の東京朝日新聞をはじめとする日本国内の各新聞社夕刊もこのニュースをトップで報道した。同日午後3時半に、ボールドウィン首相が庶民院の議場において、エドワード8世退位の詔勅と、弟のヨーク公が即位することを正式に発表した。

この影響で、シティでは電話回線がパンクし、ビジネスマン達はエドワード8世退位による経済変動の対策に追われ、映画館では字幕スーパーでニュース速報が流れ[要出典]、上映終了後に観客全員に起立を呼びかけたうえで『国王陛下万歳』が演奏された。ロンドンの市街地では、ウエスト・エンドをはじめとする商業施設の機能が停止し、群集が午後4時頃から出された号外を奪い合い、バッキンガム宮殿に出入りする王族を一目拝そうと宮殿付近に殺到するといったような事態にまでなり、ロンドンの街は大混乱に陥った。


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