エドワード7世_(イギリス王)
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注釈^ 「君主の長男」(法定推定相続人)の最長記録はチャールズ3世2011年4月20日にエドワード7世の記録を更新したが、チャールズがプリンス・オブ・ウェールズに叙されたのは1958年7月(9歳8か月)であり、生後すぐに叙されたエドワード7世よりもだいぶ遅かった。そのため、その後もエドワード7世がプリンス・オブ・ウェールズとしての期間が最も長かったが、この記録も2017年9月9日にチャールズが更新した[2]
^ 英露協商が結ばれた1907年には日仏協約日露協約が結ばれた。したがってこの年だけで、露仏同盟をふくむドイツ帝国包囲網6条約のうち3つが成立したことになる。
^ 時の首相メルバーン卿は「アルバート」の名前はノルマン朝が始まって以来、王名に使われたことがないとして「エドワード・アルバート」にすべきと上奏したが、女王は夫であるアルバートへの敬意からこれを退けた[6]
^ あくまで勉強であったので「プリンス・オブ・ウェールズ」としてではなく、「レンフルー男爵(英国皇太子が継ぐ爵位の一つ)」として訪問している[12]
^ 現実には鉄道網の発達でヨーロッパ大陸における海軍による港湾封鎖の価値はこの頃微妙になっていた[27]
^ 生前ヴィクトリア女王はバーティに「アルバート・エドワード」という二つ名の王名にしてほしがっていたが、イングランドの君主には二つ名の王がいなかったため、バーティはやんわりと断っていた[70]
^ 英領南アフリカではボーア戦争後の労働力不足を補うため、1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人苦力が年季契約で中国本国から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていた[83]。これについて道徳心高い非国教徒の中産階級は大量の苦力を船に詰め込み、鉱山で重労働させる行為は奴隷貿易に該当すると批判した。労働者階級も植民地において低賃金の中国人苦力輸入を黙認すれば、やがてイギリス本国にも輸入されるようになって自分たちの給料を下げられると警戒して反対した[84]
^ エドワードが即位して間もなくの頃、イスラム教国オスマン=トルコ帝国皇帝(スルタン)アブデュルハミト2世は父や叔父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しい旨の意をエドワードに伝えてきたが、エドワードは拒否を貫いた。またペルシャ帝国(イラン)皇帝(シャー)モザッファロッディーン・シャーも父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しいとエドワードに要請してきたが、この時もエドワードは強く難色を示した(この時にはバルフォア首相が辞職をちらつかせて強く要請してきたため、結局その説得を受け入れてしぶしぶシャーにガーター勲章を贈っている)[123]
^ ただし母のヴィクトリア女王を憚って、他人の名義で競走馬を出走させた[166]。自身の名義で走らせるようになったのは1877年から[166][167]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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