エドワード3世_(イングランド王)
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やがてランカスター派は宮廷派に抑え込まれ、1330年春の議会ではケント伯が反逆罪で公開裁判にかけられた末に処刑された[15]。しかしこの時18歳になっていたエドワード3世は、母とモーティマーの独断でのケント伯処刑に憤慨していた[16]
親政の開始母の愛人である初代マーチ伯ロジャー・モーティマーの逮捕を描いたジェイムズ・ウィリアム・エドムンド・ドイル(英語版)の年代記の絵をエドムンド・エヴァンズ(英語版)が彫版にしたもの

エドワード3世は成年に近づくにつれて母とモーティマーによる国政壟断に不満を抱き、親政を開始する機会を探るようになった。そして1330年10月にノッティンガムで諸侯の会議が行われている最中にモーティマーをクーデタ的に逮捕、モーティマーは11月末に召集した議会において絞首刑を宣告されて処刑された。母イザベラは見逃されるも政治から引退することとなった[17]

親政開始宣言において諸侯の助言を得て政治を行うことを宣言したため、貴族の支持を得た。在位中エドワード3世は基本的に貴族と良好な関係を維持できたが、これは対仏戦争という国際的な事情に加え、彼の寛大・寛容にして派手好きな性格があった。エドワード3世時代には少なからず伯爵家の創設が行われ、王子と王女の多くを国内の有力諸侯の相続人と婚姻させることで貴族の「王室の藩屏」化が推進されたためだった[17]

エドワード3世時代、特に重要な諸侯はランカスター伯、アランデル伯ウォリック伯、マーチ伯(モーティマーの処刑で一度剥奪されているが、後に復活が認められた)、ヘレフォード伯(英語版)、ペンブルック伯の6家であり、彼らの協力を取り付けることはエドワード3世に不可欠なことだった[18]
エドワード3世時代の議会について

エドワード3世の時代より前に召集された議会(パーラメント)では州や都市の代表が議員に含まれるかは全く国王の一存次第であったため、パーラメントが常に代議制議会の要素を持つとは限らなかった。事実1310年頃までは裁判官、法律家、貴族、聖職者だけで招集されるパーラメントの方が多かった。またパーラメントと無関係に州や都市の代表からなる代表制集会が開かれることもあった[19]。しかしエドワード3世が即位した1327年以降のパーラメントは州や都市の代表が必ず招集されるようになり、代表制集会は完全にパーラメントの一部となった。議員の構成面で見れば中世イングランド議会はエドワード3世時代に完成したということができる[20]

王はシェリフに宛てた令状で各州2名、各都市2名の市民を議員に選出することを求め、彼らを所定の日時場所に出頭させることを命じた。州代表に選ばれた者は騎士だったが、ここでいう騎士に実質的意味はなく、州を代表するに足る名望家であればよかった。選挙は州裁判所の月例集会で行われたと見られ、詳細不明な点が多いが、恐らくシェリフや州内有力者の意向で結果が左右されることが多かったと考えられている。州代表議員は74名だった[21]。これに対して都市代表の代表選出方法は各都市の当局に一任されており、都市ごとに様々だった。都市代表の数は州代表の倍以上であったが、彼らの地位は州選出議員と比べると著しく低かった[22]。州代表の議員は初期には貴族の議員と合同して審議する傾向があったが、1330年代からは被治者を代表して請願するという共通の立場から都市代表議員と合同するようになり、後世の庶民院の実態を形成するようになった[23]

百年戦争の莫大な戦費を必要としたエドワード3世には、議会の同意を得て国民に課す租税が不可欠であり、王は議会への依存を強めたため、議会、とりわけ課税同意と請願活動に大きな役割を果たす州代表議員の発言権が増した[19]。エドワード3世時代の議会の議事は政治問題の討議、課税、立法、司法と広範な分野にわたった。エドワード3世は常に議会の見解の全てを尊重したわけではなかったものの、議会を通じて世論を知り、王の政策に同意を取り付けることは有益なことだった。またエドワードは対教皇政策においてしばしば議会の支持を求め、教皇に対して「議会の意向」や「議会の決議」を盾にしてローマからの圧力に抵抗を試みた。ただし議会は戦争に関する助言については王から求められても慎重に回避することが多かった。戦争について助言してしまうと議会が戦争遂行の責任の一端を担うことになり、戦費調達のための王の課税要求を拒否することが困難になるためだった[23]

課税については何らかの形式で臣民の集団的同意がいるという原則は13世紀には確立していたが、エドワード3世時代にはこれに加えてさらに、
臣民の課税同意を与えるのは議会であるという原則

国王大権による課税は破棄、あるいは厳重に制限を加える原則

が立てられた[24]。後者について具体的には1332年の議会が旧王領地や国王直属都市に課せられる強制賦課金を事実上の廃止に追い込んだことや、1340年の議会が一般に直接税に対する議会の同意権を確立したとされる制定法を定めたことが特筆される[24]
スコットランド侵攻イングランドによってスコットランド王に擁立されたエドワード・ベイリャルに忠誠を誓わせるエドワード3世を描いた年代記の絵

エドワード3世は、祖父エドワード1世時代に一時的に成功するも父エドワード2世の代に破綻していたスコットランド侵攻の機会を狙っていた[25]

1332年8月に旧スコットランド王ジョン・ベイリャルの子であるエドワード・ベイリャルがスコットランド内の不満分子を糾合し、スコットランド王デイヴィッド2世に対して反乱を開始し、ダプリン・ムーアの戦い(英語版)に勝利してスコットランド王即位を宣言した。スコットランド支配を狙うエドワード3世はエドワード・ベイリャルの即位を支持して支援を与えていた[26]

しかしエドワード・ベイリャルはエドワード3世に臣下の礼を取ったため、スコットランドの誇りを傷つけ、スコットランド国内から激しく拒絶された。そのため一時イングランドへ逃げ戻るしかなかった[27]

1333年にベイリャル・イングランド連合軍は再度ハリドン・ヒルの戦い(英語版)でデイヴィッド2世軍を撃破した。ベイリャルは1334年2月にエディンバラに召集したスコットランド議会においてエドワード3世を「スコットランド最高の主」と認定し、べリックのイングランドへの割譲を決定した。さらに6月にはハディントン(英語版)からダンフリーズにかけての南部スコットランドもイングランドに割譲した。スコットランドにとってこの代償は大きく、スコットランドがこれらの地域を取り戻すのには100年の戦いを要することになる[28]

デイヴィッド2世は1334年5月にフランスへ亡命した。スコットランドは風前の灯火となったが、イングランド傀儡王のエドワード・ベイリャルは相変わらずスコットランド内の人望を全く集められず[27]、特にエドワード3世がフランス王位を要求して1338年から大陸に出兵してグレートブリテン島に不在となるとスコットランド各地でイングランド軍が押し戻されるようになり[28]、エドワード・ベイリャルも再びイングランドへ逃げ戻るしかなくなった[27]。デイヴィッド2世の摂政ロバート・ステュアート(後のロバート2世)がスコットランド内の実権を取り戻し、さらに1341年秋にはデイヴィッド2世がフランスから帰還してイングランドに対して攻勢に転じるようになる[28]


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