エドワード3世_(イングランド王)
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またイザベラはフランドルエノー伯ギヨーム1世の元を訪れ、ギヨーム1世の娘フィリッパを皇太子妃とすること認める代わりにイングランド遠征の援助を受けた[6]

そして1326年9月、イザベラとモーティマーが集めた騎士たちがイングランド東部サフォークへ上陸を開始し、ロンドンへ進軍した。エドワード2世とディスペンサー親子に味方する者はほとんどなく、各地で王妃軍は歓迎された。ロンドン市も王妃の味方をした。エドワード2世とディスペンサー親子は逃亡したが捕まってディスペンサー親子は処刑、エドワード2世は幽閉の身となった[7]
即位エドワード3世の戴冠式(ロイゼ・リデ(フランス語版)画)

1327年1月にウェストミンスターに招集された議会においてエドワード2世の廃位と皇太子エドワードを後継の国王とする指名があった。皇太子は当時15歳だったが、即位の経緯に危うさを感じ取り、父から正式な譲位がなければ王位継承はしないと返答し、そのため議会は1月20日にエドワード2世から譲位の文書を取っている[8]。議会は第3代ランカスター伯ヘンリーを国王警護役に指名したが、実権はイザベラとモーティマーが握った[9]戴冠式1327年2月25日に挙行された[2]
母とモーティマーの傀儡期

エドワード3世の即位当初、母イザベラやモーティマーを中心とした宮廷派が国政を主導した。1328年1月にヨーク・ミンスターで挙行されたエドワード3世とフィリッパの結婚式もイザベラが取り仕切った[10]。エドワードとフィリッパは又従兄弟にあたるため、教皇ヨハネス22世の特免状を得て結婚した[11]

スコットランド王ロバート1世は少年王の即位を好機とみてイングランド北部への侵攻を開始した。軍資金の確保に苦しむ母イザベラとモーティマーは、戦争継続は不可能と判断してロバート1世に講和を懇願し、エディンバラ=ノーサンプトン条約(英語版)を締結した。これによりイングランドはスコットランドが独立国であることとロバート1世がスコットランド王であることを承認した。さらにエドワード3世の妹ジョーンとロバート1世の長男デイヴィッド(のちのデイヴィッド2世)の結婚が取り決められた[12]。しかしこの講和は国内的な合意を得ないまま進められた物であったため、「屈辱外交」として国内の強い反発を招いた[9]

モーティマーはイザベラの寵愛を盾にウェールズや辺境地域で巨大な勢力を築き、1328年10月の議会でウェールズ辺境伯(マーチ伯)の称号を受けた[13]。モーティマーの急速な昇進はランカスター伯、初代ノーフォーク伯トマス・オブ・ブラザートンエドワード1世と後妻マーガレットの間の長男)、初代ケント伯エドムンド・オブ・ウッドストック(英語版)(同次男)ら王族に連なる諸侯の反発を招き、イザベラやモーティマーら宮廷派と、ランカスター伯らランカスター派の対立が顕在化した[14]

やがてランカスター派は宮廷派に抑え込まれ、1330年春の議会ではケント伯が反逆罪で公開裁判にかけられた末に処刑された[15]。しかしこの時18歳になっていたエドワード3世は、母とモーティマーの独断でのケント伯処刑に憤慨していた[16]
親政の開始母の愛人である初代マーチ伯ロジャー・モーティマーの逮捕を描いたジェイムズ・ウィリアム・エドムンド・ドイル(英語版)の年代記の絵をエドムンド・エヴァンズ(英語版)が彫版にしたもの

エドワード3世は成年に近づくにつれて母とモーティマーによる国政壟断に不満を抱き、親政を開始する機会を探るようになった。そして1330年10月にノッティンガムで諸侯の会議が行われている最中にモーティマーをクーデタ的に逮捕、モーティマーは11月末に召集した議会において絞首刑を宣告されて処刑された。母イザベラは見逃されるも政治から引退することとなった[17]

親政開始宣言において諸侯の助言を得て政治を行うことを宣言したため、貴族の支持を得た。在位中エドワード3世は基本的に貴族と良好な関係を維持できたが、これは対仏戦争という国際的な事情に加え、彼の寛大・寛容にして派手好きな性格があった。エドワード3世時代には少なからず伯爵家の創設が行われ、王子と王女の多くを国内の有力諸侯の相続人と婚姻させることで貴族の「王室の藩屏」化が推進されたためだった[17]

エドワード3世時代、特に重要な諸侯はランカスター伯、アランデル伯ウォリック伯、マーチ伯(モーティマーの処刑で一度剥奪されているが、後に復活が認められた)、ヘレフォード伯(英語版)、ペンブルック伯の6家であり、彼らの協力を取り付けることはエドワード3世に不可欠なことだった[18]
エドワード3世時代の議会について

エドワード3世の時代より前に召集された議会(パーラメント)では州や都市の代表が議員に含まれるかは全く国王の一存次第であったため、パーラメントが常に代議制議会の要素を持つとは限らなかった。事実1310年頃までは裁判官、法律家、貴族、聖職者だけで招集されるパーラメントの方が多かった。またパーラメントと無関係に州や都市の代表からなる代表制集会が開かれることもあった[19]。しかしエドワード3世が即位した1327年以降のパーラメントは州や都市の代表が必ず招集されるようになり、代表制集会は完全にパーラメントの一部となった。議員の構成面で見れば中世イングランド議会はエドワード3世時代に完成したということができる[20]

王はシェリフに宛てた令状で各州2名、各都市2名の市民を議員に選出することを求め、彼らを所定の日時場所に出頭させることを命じた。州代表に選ばれた者は騎士だったが、ここでいう騎士に実質的意味はなく、州を代表するに足る名望家であればよかった。選挙は州裁判所の月例集会で行われたと見られ、詳細不明な点が多いが、恐らくシェリフや州内有力者の意向で結果が左右されることが多かったと考えられている。州代表議員は74名だった[21]。これに対して都市代表の代表選出方法は各都市の当局に一任されており、都市ごとに様々だった。都市代表の数は州代表の倍以上であったが、彼らの地位は州選出議員と比べると著しく低かった[22]。州代表の議員は初期には貴族の議員と合同して審議する傾向があったが、1330年代からは被治者を代表して請願するという共通の立場から都市代表議員と合同するようになり、後世の庶民院の実態を形成するようになった[23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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