イザベラを伴って帰国した後の1308年2月25日に戴冠式に臨んだが、この時もギャヴィストンを王冠奉持者にして重用している。ギャヴィストンは自分に敵意を飛ばす諸侯にわざと恥をかかせるようなふるまいをし、さらに王妃イザベラの叔父たちにも無礼を働いた。この叔父たちは怒って席を立ってフランスへ帰国してしまったほどだった[15]。
1308年の議会に諸侯は武装して集まり、エドワード2世を威圧してギャヴィストン追放を要求した。屈服したエドワード2世はギャヴィストンをアイルランド総督に任じてロンドンから遠ざけることで諸侯と妥協した。この際もエドワード2世はギャヴィストンとの別れを惜しみ、アイルランドへ向かうギャヴィストンの見送りにブリストルまで同行した[16]。さらに翌1309年の議会でエドワード2世は議会からの様々な要求を受け入れる代わりにギャヴィストンを呼び戻す許可を得、ギャヴィストン寵愛を再開した[17][16]。
改革勅令とギャヴィストンの死第2代ランカスター伯トマス、第4代ヘレフォード伯(英語版)ハンフリー・ド・ブーン(英語版)、第9代アランデル伯エドムンド・フィッツアランら諸侯がギャヴィストンを私刑で斬首した場面の絵
A Chronicle of England,1864年
1310年の議会も諸侯は武装して集まり、悪しき助言者の存在、物資徴発の弊害、スコットランド喪失、1307年と1309年の議会が与えた租税が空費されたことなどを列挙してエドワード2世を批判し、政治改革を要求した。エドワード2世は屈服し、カンタベリー大司教、6人の司教、8人の伯爵なら成る改革勅令起草委員会 (Lords Ordainers) の設置を認めた[18]。
1311年の議会の討議も踏まえて、同年秋に改革勅令(英語版)が発せられた。この改革勅令は、
ギャヴィストンの永久追放。
エドワード2世即位後に行われた王領地贈与の取り消し。
1294年以降制定の関税廃止。
王を議会の管理下に置いて王の執行権や人事権や行動の自由を制限すること。
年に1度か2度は議会を開くこと。
大憲章(マグナ・カルタ)や御料林憲章(英語版)の解釈権は議会の諸侯にあること
ギャヴィストンは追放処分を受ける前にフランドルへ逃げ、その後ひそかに帰国し、1312年にウィンザーのエドワード2世と合流して追放処分取り消しを受けた。これを知って激怒した諸侯はウィンザーへ向けて進軍し、エドワード2世とギャヴィストンはスカーバラ城に籠城して三週間粘ったが、結局降伏を余儀なくされた[19]。
エドワード2世の執り成しと懇願でギャヴィストンの生命は保証されたが、その代わりギャヴィストンは永久追放処分となることになった。ギャヴィストンは身柄をペンブルック伯に引き渡されて護送されていったが、この際に第10代ウォリック伯ガイ・ド・ビーチャムや第2代ランカスター伯トマスらギャヴィストン助命に反対する諸侯が独断でギャヴィストンの身柄を強奪して私刑の斬首に処してしまった。この件にエドワード2世は憤慨し、またギャヴィストンを護送していたペンブルック伯らとギャヴィストンを殺害したランカスター伯らの関係にも亀裂が入り、諸侯の連携が崩れた。内乱の空気さえ漂ったが、皇太子エドワード出生の慶事があったため、危機は回避された[20][19]。
1314年夏にはスコットランドにおけるイングランドの拠点スターリングが包囲されたのを受けて、エドワード2世自ら援軍を率いてスコットランドへ出征したが、バノックバーンの戦いでスコットランド軍に惨敗。これはエドワード2世の権威を一層低下させ、改革勅令の遵守を誓約することを余儀なくされた[20]。またこの戦いにはペンブルック伯が従軍していたが、彼との不仲からランカスター伯は参加しなかった。そのため政府の指導権はランカスター伯が握るところとなった[21]。
1316年2月の議会では、ランカスター伯に政権を任せられることになったが、彼は積極的な国政指導を行わず、エドワード2世とも他の諸侯とも疎遠になって孤立を深めた[22]。 一方宮廷ではヒュー・ル・ディスペンサー(大ディスペンサー)とその同名の息子(小ディスペンサー)の親子がエドワード2世の寵愛を得て台頭していた[23]。 ディスペンサー親子の寵愛も諸侯の反発を買い、ディスペンサー親子は諸侯の圧力で1321年に国外追放処分となったが、その翌年には国王が呼び戻した。これを知ったランカスター伯ら諸侯はディスペンサー追放を求めて挙兵するが、ペンブルック伯らランカスター伯と対立する諸侯が参加しなかった。結局ランカスター伯は1322年3月のバラブリッジの戦いで王軍に敗北し、捕らえられて処刑された[24][25] このバラブリッジの戦いの勝利により宮廷勢力(エドワード2世とディスペンサー父子)は権力を回復させ、1322年のヨークでの議会では先の改革勅令を全体として廃止できた[26]。 小ディスペンサーは実務嫌いのエドワード2世から実務を任されて、その恩賞で領地をどんどん拡大させ、さらに賄賂で私腹を肥やした[26]。大ディスペンサーもウィンチェスター伯に叙されて厚遇された[23]、 以降5年ほどディスペンサー父子が国政を主導していくが、この間ディスペンサー父子の専横への怨嗟はどんどん高まっていた[26]。特にウェールズにおける所領の拡大はウェールズ辺境諸侯
ディスペンサー父子の台頭
王妃のクーデタで失脚夫エドワード2世を逮捕させ、息子の皇太子エドワードとともにイングランドへ戻ったイザベラ王妃