エドワード1世_(イングランド王)
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1277年1282年から1284年にかけてはウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)サウェリン・アプ・グリフィズが統治するウェールズに侵攻し、アベルコンウィ条約を締結することでサウェリンの影響力を低下させ、サウェリンを完全に支配下に置いた。そして1282年、サウェリンが病死した後、同国を併合した。後にウェールズ大公の地位を自らの皇太子エドワード(エドワード2世)に与え、以降この称号は英国皇太子に与えるのが伝統となった(→ウェールズ侵攻)。

つづいてスコットランドに狙いを定め、1291年には同国の王位継承争いに介入し、御しやすそうなジョン・ベイリャルを支持して彼を王位につけ、自らに臣従を誓わせた(→スコットランド王位継承への介入)。スコットランド国内でイングランドへの反発が高まり、1295年にはジョン・ベイリャルやスコットランド貴族たちが反旗を翻したが、1296年にスコットランド侵攻を行ってダンバーの戦い(英語版)でスコットランド軍を撃破した。ベイリャルを廃位して王権を自らに譲渡させた(→スコットランド侵攻)。

フランスとの外交関係はパリ条約以降良好に推移していたが、1294年にフランス王フィリップ4世がエドワードの領有するアキテーヌの没収を宣言したため、フランスとも開戦するに至った(→英仏戦争)。

フランスやスコットランドとの戦争には膨大な戦費が必要だったことから、1295年に彼が招集した議会は、下級聖職者や州騎士、各都市の市民の代表などを含めた広範な社会階層の代表者を集めた議会となった。そのため代議制の性格が強い議会となり、後世の議会の模範となったとされ、「模範議会」と呼ばれる(→模範議会)。しかし高額の課税に反発は高まり、特に1297年フランドル出兵に際して恣意的課税を行おうとしたのを機に諸侯との対立が再燃した。その対立の中で諸侯や議会から国王の恣意的課税を制限するマグナ・カルタなど既存の法律の確認あるいは新規の立法を強要された。この諸侯との対立は崩御まで解消されることはなかった(→諸侯との対立再燃)。

スコットランドでは彼が総督に任じた第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレンが過酷な統治を行っていたが、ウィリアム・ウォレスらの抵抗運動の激化を招いた。ウォレスをフォルカークの戦いで破り、捕らえて残虐刑で処刑することには成功したが、スコットランドの抵抗運動はますます激しくなった(→ウィリアム・ウォレスとの戦い)。つづいてエドワードに王位を否定されていたロバート・ブルースがスコットランド王ロバート1世に即位することで反旗を翻した。その追討のために出陣した際の1307年に崩御した。

彼に代わって国王に即位したエドワード2世はロバート1世に敗れてスコットランドを失うこととなる(→ロバート1世との戦いと崩御)。
生涯
生い立ち

1239年6月17日にイングランド王ヘンリー3世と王妃エリナー・オブ・プロヴァンスの長男としてロンドン・ウェストミンスター宮殿に生まれる[2]エドワード証聖王にあやかってエドワードと名付けられた。これまでプランタジネット朝の王は全てフランス名だったが、彼は初めてイングランド風の名前が与えられた王である[3]

洗礼式の際には義理の叔父(叔母の夫)にあたる第6代レスター伯シモン・ド・モンフォール代父を務めたが、このレスター伯は後にエドワードに討ち取られることになる[4]

1254年カスティーリャレオン王国首都ブルゴスにおいてカスティーリャ王レオン王フェルナンド3世の娘エリナーと結婚した。カスティーリャ=レオン王国は未だイングランド王が統治権を残すフランスのアキテーヌ公領の背後に位置しており、フランス王のアキテーヌ侵攻を防ぐための政略結婚だった[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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