エドワード三世_(戯曲)
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シェイクスピア説反対の根拠となっているのは、ジョン・ヘミングス(John Heminges)とヘンリー・コンデル(Henry Condell)が1623年の「ファースト・フォリオ」に『エドワード三世』を含めていないということと、シェイクスピアの初期戯曲の一覧を記したフランシス・ミアズ(Francis Meres)の『知恵の宝庫(Palladis Tamia)』(1598年)に『エドワード三世』が挙げられていないことである。多くの研究家がこの劇はシェイクスピアの執筆能力に値しないと考えていたが、いくつかの文章がシェイクスピアと関係があることはわかっていた。1760年、シェイクスピア編者のエドワード・カペル(Edward Capell)はその著書Prolusions; or, Select Pieces of Ancient Poetry, Compil'd with great Care from their several Originals, and Offer'd to the Publicke as Specimens of the Integrity that should be Found in the Editions of worthy Authorsでこの劇をシェイクスピアが書いたと主張した。しかし、カペルの意見は研究者たちに受け入れられなかった。

近年になって、シェイクスピア研究者たちは新たな視点からこの劇を評価し直し、いくつかの文章はシェイクスピアの初期の歴史劇、たとえば『ジョン王』や『ヘンリー六世』と同じくらい洗練されているという結論した。さらに、『ソネット集』からの直接の引用も見つかった。文体論の分析は、少なくともいくつかの場面はシェイクスピアが書いたという証拠を得た[5]オックスフォード大学出版局の『オックスフォード版シェイクスピア全集』への「テキストの手引き」の中で、ゲイリー・テイラーは「すべての非=正典作品のうち、(『エドワード三世』は)全集に含めていいと強く主張する」と述べている[6]。(その後、ウィリアム・モンゴメリー編の『オックスフォード版シェイクスピア全集』第2版(2007年)に『エドワード三世』は含まれた)。メジャーの出版社で最初に『エドワード三世』をシェイクスピア全集に収めたのは、最初にケンブリッジ大学出版(Cambridge University Press)の『ニュー・ケンブリッジ版シェイクスピア』シリーズだった。続いて、『リヴァーサイド版シェイクスピア』も全集に加え、『アーデン版シェイクスピア』にも入っている。ケンブリッジ版の編者ジョルジオ・メルキオーリは『エドワード三世』が正典から外されたのは、劇中のスコットランド人をばかにした描写に対して起こった1598年の抗議のせいだと主張した。メルキオーリによると、1598年4月15日にエリザベス一世エディンバラの代理人ジョージ・ニコルソンからバーリー卿ウィリアム・セシルに宛てた公衆の動揺について記した手紙の中に、タイトルははっきり述べられていないが、スコットランド人を敵意に満ちて描いた芝居があり、公式でも非公式でもいいので上演禁止にした方がいいと書かれてあり、それでヘミングスとコンデルも忘れたままになっていたのだろうと、これまでにも研究者たちがしばしば主張していたということである[3]

本作に描かれている出来事や君主は、ヘンリアド薔薇戦争四部作、『ヘンリー八世』に加えてシェイクスピアの史劇の射程を広げるものであり、これによりシェイクスピアはエドワード3世からシェイクスピアに非常に近い時代の王であるヘンリー8世まで全ての君主を芝居で扱ったことになる。

一部の学者、とくにエリック・サムス(Eric Sams)は[7]、『エドワード三世』が隅から隅までシェイクスピアの作品だと主張しているが、現在のところ、研究者たちの意見は、初期の合作説、わずかな場面のみ書いた説などに割れている。2009年にブライアン・ヴィッカーズは剽窃検知のために作られたコンピュータプログラムで本作を分析した結果、この芝居の40%はシェイクスピア作で他の場面はトマス・キッド(1558?1594)作であろうという研究成果を発表した[8]ハロルド・ブルームは『リチャード三世』などとの共通性が全く無いという理由で、シェイクスピアがこの芝居を書いたという説を否定している[9]
著者推定の一覧

ジョージ・ピール(George Peele
)説 - タッカー・ブルック(1908年)

クリストファー・マーロウロバート・グリーン&ジョージ・ピール&トマス・キッドが協力した説 - J・M・ロバートソン(J. M. Robertson)(1924年)

マイケル・ドレイトン(Michael Drayton)説 - E・A・ジェラルド(1928年)およびH・W・クランデル(1939年)

ロバート・ウィルソン(Robert Wilson)説 - S・R・ゴルディング(1929年)

トマス・キッド説 - W・ウェルズ(1940年)とG. ランブレヒツ(1963年)

ロバート・グリーン説 - R:G:ホワース(1964年)

ウィリアム・シェイクスピア単独説 - エドワード・カペル(1760年)、A・S・ケアンクロス(1935年)、エリオット・スレイター(1988年)、エリック・サムス(1996年)

ウィリアム・シェイクスピア他1名説 - ジョナサン・ホープ(1994年)

ウィリアム・シェイクスピアとクリストファー・マーロウ説 - ロバート・A・J・マシューズ&トマス・V・N・メリアム(1994年)

ウィリアム・シェイクスピアと、マーロウではない作家の誰か説 - ジョルジオ・メルキオーリ(1998年)[3]

トマス・キッドが60%、シェイクスピアが40% - ブライアン・ヴィッカーズ[8]

上演史2001年8月、カーメル・シェイクスピア・フェスティヴァルでの『エドワード三世』の上演

20世紀におけるこの芝居の最初の公演は1911年3月6日、ロンドンのリトル・シアターでのものであり、エリザベサン・ステージ・ソサエティが第二幕のみ上演した。この後、BBCが1963年に短縮版でこの芝居を放映している。完全版の上演は1986年にシェイクスピア外典のシーズンの一環としてロサンゼルスで実施されており、1987年にはモールドで上演された[10]

1998年、ケンブリッジ大学出版局が大手の出版社としてははじめてシェイクスピアの著作としてこの戯曲を刊行し、その少し後にロイヤル・シェイクスピア・カンパニーがこの芝居を上演した。批評は様々であった。2001年にパシフィック・レパートリー・シアターがカーメル・シェイクスピア・フェスティヴァルの一環として、プロの劇団としては初めてアメリカでこの芝居を上演し、好評であった。
脚注^ Melchiori, Giorgio, ed. The New Cambridge Shakespeare: King Edward III, 1998, p. 2.
^ Connotations Volume 3 1993/94 No. 3 Was The Raigne of King Edward lll a Compliment to Lord Hunsdon?
^ a b c Giorgio Melchiori, ed. The New Cambridge Shakespeare: King Edward III, 1998
^ Melchiori, Giorgio, ed. The New Cambridge Shakespeare: King Edward III, 1998, p. 2.
^ M.W.A. Smith, 'Edmund Ironside'. Notes and Queries 238 (June, 1993):204-5. Thomas Merriam's article in Literary and Linguistic Computing vol 15 (2) 2000: 157-186。この本では、stylometry(統計学的方法による文体研究)を用いて、マーロウの書いた草案をシェイクスピアが書き直したという説を検証している。
^ Wells, Stanley and Gary Taylor, with John Jowett and William Montgomery, William Shakespeare: A Textual Companion (Oxford University Press, 1987), p. 136
^ Sams, Eric. Shakespeare's Edward III : An Early Play Restored to the Canon (Yale UP, 1996)
^ a b Malvern, Jack (2009年10月12日). “ ⇒Computer program proves Shakespeare didn't work alone, researchers claim”. Times of London. 2016年4月28日閲覧。
^ Bloom, Harold. Shakespeare: The Invention of the Human. New York: Riverhead Books, p. xv.
^ Melchiori, 46?51.

参考文献

エドワード三世 - 訳と解説:
河合祥一郎(白水社)

外部リンク.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、エドワード三世 (戯曲)に関連するカテゴリがあります。


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