1778年、ダービー伯爵の別荘「オークス荘」で催された晩餐会の席上で、3歳の牝馬を集めた距離1マイル(約1600メートル)の競馬の競走が発案された[註釈 4]。翌1779年に行われたこの競走は、アイディアが出された別荘の名を取って「オークス」と名付けられ、この時の優勝馬はダービー伯爵が出走させたBrigetであった。
そのオークス後の祝賀会の席で、今度は3歳の牡馬による同様の競走を創設しようという流れになり、その競走の命名を巡ってダービー伯爵と友人のサー・チャールズ・バンベリー準男爵との間で譲り合いが続き、ついにはコイントスが行われた。結果ダービー伯爵が勝利し、この競走には彼の爵名から取った「ダービー」という名が付けられた。このオークスとダービーという二競走は現在に至るまで続いており、イギリスの3歳戦で最重要の競走となっているのみならず、これに範を取りオークス、ダービーと名付けられた同様の競走が世界中に広がる事となった。第1回ダービーではバンベリーの所有馬ダイオメドが優勝を果たした。ダービー伯爵自身は、1787年の第8回をサーピーターティーズルで優勝している。2005年、2006年のジャパンカップでウィジャボードと共に来日した第19代ダービー伯爵エドワード・スタンリー
は直系7代目の子孫にあたる。1774年6月23日にサリー州[註釈 5]リッチモンドのアーガイル・ハウスにて第6代ハミルトン公爵ジェイムズ・ダグラス=ハミルトンの娘レディ・エリザベス・ハミルトン(英語版)と結婚した[1][2][3]。彼女との間に一男二女を儲けたが、別居状態が長く続いた後1797年に死別[1][3][9]。
エドワード(1775年4月21日 ? 1851年6月30日) - 第13代ダービー伯爵[9]
シャーロット(1776年10月17日 ? 1805年11月25日) - 1796年8月22日、エドマンド・ホーンビー(Edmund Hornby、ジェフリー・ホーンビーの息子)と結婚[9]
エリザベス・ヘンリエッタ(1778年4月29日 ? 1857年11月4日) - 1795年1月15日、スティーブン・トマス・コール(Stephen Thomas Cole、1765年4月26日 ? 1835年9月6日)と結婚[9]
エリザベス・ファーレン(英語版)(サー・トマス・ローレンス画)
1797年5月1日、喜劇女優のエリザベス・ファーレン(英語版)と再婚し、彼女との間にも一男二女を儲けた[1][2][3]。
ルーシー・エリザベス(1799年3月1日 ? 1809年4月25日[9])
ジェームズ(1800年3月9日 ? 1817年4月3日[9])