エドワード・エルガー
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性分に合わない事務員でのキャリアを見出せず、音楽ばかりでなく文学にも埋め合わせを求めた彼は貪欲に書籍を読み耽った[注 5]。この時期に彼はヴァイオリニスト、オルガニストとして最初の公開演奏を行っている[14]エルガーが実践を通じて作曲を学んでいったポウィックの精神科養護施設。

数ヵ月後、エルガーは音楽の道に身を投じるべく事務弁護士の元を後にし、ピアノやヴァイオリンのレッスンを行うと同時に折に触れて父の店で働くようになった[1]。彼はウスターのグリークラブで父と共に活発に活動する傍ら、歌手を伴ってヴァイオリン演奏、楽曲の作曲や編曲、そして初めての指揮も行った。ポリッツァーはエルガーにヴァイオリニストとして国を代表するソリストとなり得る才能があると信じていたが[15]、エルガー自身はロンドンの演奏会で一流ヴィルトゥオーゾたちの演奏を耳にして、自分の演奏には十分な音色が欠けていると感じて、ソリストになるという野心を捨ててしまう[1]。22歳になった彼はウスターから5km離れたポウィック(英語版)のウスター・アンド・カントリー精神科養護施設(英語版)付属楽団の指揮者の職に就いた[5]。楽団はピッコロフルートクラリネットホルン2、ユーフォニウム、3人から4人の第1及び第2ヴァイオリン、場合によってヴィオラチェロコントラバスやピアノという構成だった[16]。エルガーは奏者に指導を行い、この特殊な編成の楽団のためにカドリーユポルカなどの音楽を作曲、編曲した。ミュージカル・タイムズ紙はこう書いている。「この実践的な体験が若い音楽家にとって最大の価値を有していたことがわかる。(中略)彼はこれらの様々な楽器の性能について実用的知識を得た。(中略)彼はそうして音の色彩、並びにこれらやその他の楽器の詳細をつぶさに知ることになったのである[5]。」彼は1879年以降この職に5年間留まり、週に1回ポウィックへと足を運んでいた[1]。彼が初期に就いていた他の職にはウスターの盲学校(英語版)のヴァイオリンの教授があった[5]



シューマン ブラームス


ルビンシテンワーグナー

元来孤独を好み内省的な性格であったエルガーであるが、ウスターの音楽サークルでは目立つ存在だった[2]。彼はウスターやバーミンガムの音楽祭でヴァイオリンパートに加わっており、そうした中でドヴォルザーク自身の指揮で交響曲第6番と『スターバト・マーテル』を演奏できたのは大きな経験となった[17]。また彼は、オーボエ奏者で自ら組織した吹奏楽団の指揮をしていた弟のフランクとともに管楽五重奏団でファゴットを吹いていた[5]。エルガーはモーツァルトベートーヴェンハイドンやその他の作曲家の多くの作品を五重奏用に編曲し、自身の編曲と作曲の腕前を磨いていった[5]

初めてとなる海外旅行で、エルガーは1880年パリ1882年にライプツィヒを訪れた。彼はサン=サーンスマドレーヌ寺院のオルガンを演奏するのを耳にし、第1級のオーケストラの演奏会に出席した。1882年に彼はこう書いている。「シューマン(私の理想!)、ブラームスルビンシテインワーグナーにどっぷり浸かったので、文句を言う理由などありません[11]。」ライプツィヒでは音楽院で学んでいた友人のヘレン・ウィーヴァー(Helen Weaver)を訪ねた。2人は1883年の夏に婚約を果たしたが、この縁談は理由はわからないものの翌年破談となってしまった[1]。エルガーは大いに悲嘆にくれる。彼が後年ロマン的な音楽へ謎めいた傾倒を見せるのは、ヘレンや彼女に対する想いがほのめかされていることが一因かもしれない[注 6]


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