エドマンド・バーク
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[8]1757年に『崇高と美の観念の起源』[注 2][9] を匿名で発表する。特に後者がサミュエル・ジョンソンに「真に批評に値するもの」と評価され、文壇に出る。この年にジェーン・ニュージェントと結婚する。1758年には出版人ロバート・ドズリー(en)と組むと、前年の世界情勢を記録・分析した年鑑『アニュアル・レジスター』(The Annual Register)を創刊し、約30年間にわたり編集に携わる。1759年、政治家ウィリアム・ジェラード・ハミルトン(英語版)の秘書の仕事につくと、主にハミルトンの赴任先、ダブリンに滞在する。雇い主は1761年から1764年まで、アイルランド総督の第2代ハリファックス伯爵ジョージ・モンタギュー=ダンクの首席秘書を務めていた。1764年にはジョンソンを中心に「ザ・クラブ(英語版)」(のちの文学クラブ)が結成され、ジョシュア・レノルズオリヴァー・ゴールドスミスらとともに創設会員となる。
政治家として

1764年にハミルトンと決裂した後、1765年にホイッグ党の派閥の領袖ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワースの秘書となり、バッキンガムシャーから選出されて英国下院議員の座につく。

名誉革命以来、制限された諸権限を取り戻そうと国王ジョージ3世が「王の友」と呼ばれたトーリー党員たちと組む中、バークは1770年に『現代の不満の原因についての考察』[注 5]により政党制の意義を説き、議会の王権からの独立、議会情報の公開を主張した。

植民地政策をめぐっては通商政策を重視すると、「アメリカに対する課税」[注 6]「和解の提案」を記し[注 7]、アメリカ植民地住民との和解を主張した。また、アイルランドのカトリック教徒を弁護し、経済と刑罰の規制緩和を訴えた。さらに、東インド会社による腐敗したインド統治を是正するため、インド法案の起草者となる[注 8]。初代インド総督であるウォーレン・ヘースティングズに対しては1773年に不信を表明し、後には弾劾運動を率いて[注 9]、自ら議員を引退する1794年まで続けた[注 10]

ブリストル選挙区から立候補した際には、近代民主制の代表制度における「一般代表」の観念で有名な[要出典]ブリストル演説[10]をおこなっている。

55歳になる1784年、グラスゴー大学の学長に任命される。
対フランス革命

ロンドンの新聞が1789年7月14日のバスティーユ牢獄の襲撃を報じた7月18日、バークは既に60歳と当時は老齢と見なされる年齢に達していた。当初からフランス革命に対し否定的であり、そのことは1789年8月9日の手紙からもわかる。フランス革命への最初の言及を記録したとされる手紙には、次のように書いている。自由を求めて苦闘するフランスを、イングランドは驚きながらじっと見つめている。非難すべきか賞賛すべきかは分からない! 進歩の中に何かそれらしいものが見えると、私は数年来考えた。だがいまだにその苦闘は、逆説的で奇妙なものを確かに内包している。自由への精神に感心しないわけにはいかないが、年老いたパリ市民の蛮行は衝撃的なやり方で勃発したのである。 ? バーク[11]

バークがフランス革命を断固として拒絶するようになったきっかけは、ルイ16世をパリに引き戻すため 、1789年10月5日から6日にかけて暴徒化した市民がヴェルサイユへ進撃した出来事である(ヴェルサイユ行進)。同月10日、バークは息子リチャード宛ての手紙にこう記した。この日私は、フランスのゆゆしき宣言を示す文書を送ってきたローレンスから耳にした。その宣言においては、まるで人間社会を構成する要素がみな解決したかのように思われ、そして怪物のような世界が生成される。そして、尊大な反政府主義者ミラボー主宰が統括し、前の君主は哀れなほどにおかしな姿になっているのである。 ? バーク[12]

また当時、まだ無名であったリチャード・プライス(哲学者、en)が名誉革命記念協会を代表してフランス国民会議に賛辞を送っており、バークはイギリス世論が同協会の意見と同一視されることに危惧を抱いていた。ジェームズ・ギルロイ作「ドブネズミを嗅ぎだす[注 11]

同1789年11月、バークは革命支持者であるフランス人青年シャルル=ジャン=フランソワ・デュポンから手紙を受け取る。バークは「私の言う危機的な言い回しは、すべて単なる疑問の表現として見なされるべきである。」と返答した。だが、付け足してもいる。「貴方がたは君主を倒したかもしれない。でも自由は奪回できていない[13]」。


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