トーリー党(後の保守党)に対するホイッグ党(後の自由党)の幹部を務めたため、バークを保守主義者ではなく古典的自由主義者に分類する説もある。アメリカ独立革命運動を支持した一方、その後のフランス革命には反対した。反フランス革命の立場をとったので、彼はホイッグ党の保守派派閥の中で率先者となった。彼はこれを「旧ホイッグ」と呼び、チャールズ・ジェームズ・フォックス率いるフランス革命支持派の「新ホイッグ」に反対した。
主著は1790年の『フランス革命の省察』[注 1]であり、この本はロマン主義および保守主義のバイブルとされる[2][3]。フランス革命を全否定して、ジャコバン派の完全追放のため、革命フランスを軍事力で制圧する対仏戦争を主導した。また文壇に出るきっかけとなった論文の『崇高と美の観念の起源』[注 2]は、英国で最初に美学を体系化したものとして有名である[4]。ここでは「崇高美」というひとつの美意識が定義されている。
政治家としては、絶対王政を批判し、議会政治を擁護した。特定の選挙区の有権者の利害を代表しない「一般代表」の理念を提唱した[2]。文章家・演説家でもある。 1729年1月12日、アイルランド王国、ダブリンの法律家リチャード・バークの次男として生まれる。父は国教徒、母はカトリックであったが、当人は国教の洗礼を受ける。1744年、15歳でダブリンのトリニティ・カレッジに入学する。1748年に文学士の学位を得るが大学に残り、美学の研究を続ける[注 3]。1750年、父の希望に従い、ロンドンの法学院ミドル・テンプルに入学する。 1756年に『自然社会の擁護』[注 4]を発表、此著作はその後彼によって諷刺と語られてはいるが、人間の理性が立証する本性の明白な規則に対する信頼[6]と、そこから逸脱した[6]暴力に支えられた国家の本質によって起こる虐殺の歴史の記述[7]は、政治家になった後の保守的な見解より聊か無政府主義的と言えるほど自由主義的であった。[8]1757年に『崇高と美の観念の起源』[注 2][9] を匿名で発表する。特に後者がサミュエル・ジョンソンに「真に批評に値するもの」と評価され、文壇に出る。この年にジェーン・ニュージェントと結婚する。1758年には出版人ロバート・ドズリー(en
経歴
幼少期
青年期