エドガー・アラン・ポー
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ダーク・ロマンティシズムは超絶主義から起こった文学的な潮流だが、ポーは超絶主義の思想自体は毛嫌いしており、この思想運動の追随者たちを「池の蛙たち」と呼んで批判していた[63]。これらに加えてポーは「オムレット侯爵」「ボンボン」「息の喪失」「××だらけの社説」といった、風刺小説やパロディなどに類するユーモア小説も手がけている[64]。ポーのデビュー作「メッツェンガーシュタイン」ももともと「ドイツ人に倣びて」という副題が付けられたゴシック小説のパロディとして書かれていたもので、作家活動を始めたばかりのポーは「フォリオクラブ物語」の総題で一連のパロディ作品を書いていく構想も持っていた[65]

1841年に発表された「モルグ街の殺人」はしばしば史上初の推理小説とされており、この作品で生み出されたC・オーギュスト・デュパンの天才的探偵像、怪奇性と結末の意外性、物語の前半で推理の材料を読者の前に公開し、最後になって推理を披露する構成、不可能犯罪とトリックなどは、アーサー・コナン・ドイルを初めとする後世の作家にこのジャンルの約束事として受け継がれている[66]。ポー自身の推理小説(ポー自身は「推理物語(the tales of rasiocination)」と呼んでいた)は、「モルグ街の殺人」とその続編の「マリー・ロジェの謎」「盗まれた手紙」の3作、広く見積もっても「黄金虫」「お前が犯人だ」の5作程度しか書かれていないが[67]、「メルツェルの将棋指し」「暗号論」といったエッセイ、論考などを合わせて考えると、推理・分析というテーマはポーの作家人生のほぼ全体を通じて存在していたことがわかる[67]。なおポーは「モルグ街の殺人」の前年の1840年に作品集『グロテスクとアラベスクの物語』の序文に、自身の作品が批評家から「ドイツ的」で陰惨だと批判されたことを記し、もうこの種の作品は書かないだろうと宣言しており(この宣言は必ずしも守られなかったが)、ポーは病的な作風を変えようとした結果、推理小説という形式に行き着いたのではないかとも言われている[68]

また『アーサー・ゴードン・ピムの物語』『ハンス・プファールの無類の冒険』などの冒険小説はジュール・ヴェルヌH・G・ウェルズに少なからぬ影響を与えており、ポーはこれらによってSF小説のパイオニアとしての評価もなされている[69]。ポーにはこのほかに「アルンハイムの地所」「ランダーの別荘」など、風景庭園小説として括られる数編の作品がある[70]

雑誌編集者であったポーは、雑誌という媒体を強く意識して作品を書いた最初の近代作家の一人でもあった[71]。彼は雑誌の読者である大衆の興味を鋭敏に察知して作品に反映させており[72]、その結果として骨相学[73]や観相術[74]催眠術[75]といった疑似科学をしばしば作品で取り上げた。ゴシック小説もまた一面では当時の大衆の好みを反映したものである[76]
創作理論

『サザン・リテラリー・メッセンジャー』誌時代より、ポーは短編作品とともに多数のエッセイや書評を自分の勤める雑誌に寄稿しており、存命中は歯に衣着せぬ批評家としてよく知られていた。1830年代から40年代のアメリカ合衆国の文壇はヘンリー・ワズワース・ロングフェローを中心としたニューイングランド出身の作家たちが中心となっており、その書評・批評は身内びいきのいい加減なものが多かった。このような現状に業を煮やしたポーは文芸批評に「原理」という基準を持ち込み、文学に必要な要素を明らかにしようとしたのである[77]

例えばポーは詩に関しては、その唯一正当な領域が「美」にあるとし、「美」は「義務や真実」とは依存関係を持たないという考えから、詩における教訓主義を正当な文学から排除している[78]。また詩におけるリズムは「真実」を追究する表現のためには障害となるが、他方物語においては「真実」はしばしば極めて重大な目的となるとしている[79]。そしてポーはこれらの創作における「効果の統一性」や「印象の統一性」を強調しており、その統一性をもたらすために作品の長さが「一気に読めるようなもの」でなくてはならないとして、詩については長大な叙事詩を時代遅れのものとして退け[80]、小説については1、2時間で読める短編小説(物語)を長編小説よりも優位においている[81]。初期の書評で展開されたポーの批評原理は晩年に「詩作の哲学」「詩の原理」という講演で纏められており、「詩作の哲学」では自作「大鴉」の各詩行がどのような意図で語を選択しているのかを逐次的に明らかにしていき、「詩の原理」では前述したような詩の本質を説きながらポーの愛読するさまざまな詩を解説している。
受容史
アメリカ合衆国における受容

本国アメリカ合衆国においてはポーの作品は長い間正当な評価を受けておらず、一部の愛読者からの賞賛をのぞくとその文学的地位は低く留まっていた。ポーの作品がアメリカで受け入れられなかったのは、ひとつにはアメリカ文学がもともと清教徒の多い北部ニューイングランドで起こったものであり、文学界で指導的地位を持っていたのが北部の批評家や出版社だったため、南部の文学が軽んじられていたという理由による[82]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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