ポーの作品のうち最もよく知られているものは「アッシャー家の崩壊」「黒猫」「ライジーア」「赤死病の仮面」「ウィリアム・ウィルソン」などのゴシック小説ないし恐怖小説であり[60]、特に死に対する疑問、病や腐敗、早すぎた埋葬、死からの再生といったテーマが好んで取り上げられ[61]、その創作の大部分はダーク・ロマンティシズム(英語版)に属するものと考えられている[62]。ダーク・ロマンティシズムは超絶主義から起こった文学的な潮流だが、ポーは超絶主義の思想自体は毛嫌いしており、この思想運動の追随者たちを「池の蛙たち」と呼んで批判していた[63]。これらに加えてポーは「オムレット侯爵」「ボンボン」「息の喪失」「××だらけの社説」といった、風刺小説やパロディなどに類するユーモア小説も手がけている[64]。ポーのデビュー作「メッツェンガーシュタイン」ももともと「ドイツ人に倣びて」という副題が付けられたゴシック小説のパロディとして書かれていたもので、作家活動を始めたばかりのポーは「フォリオクラブ物語」の総題で一連のパロディ作品を書いていく構想も持っていた[65]。
1841年に発表された「モルグ街の殺人」はしばしば史上初の推理小説とされており、この作品で生み出されたC・オーギュスト・デュパンの天才的探偵像、怪奇性と結末の意外性、物語の前半で推理の材料を読者の前に公開し、最後になって推理を披露する構成、不可能犯罪とトリックなどは、アーサー・コナン・ドイルを初めとする後世の作家にこのジャンルの約束事として受け継がれている[66]。ポー自身の推理小説(ポー自身は「推理物語(the tales of rasiocination)」と呼んでいた)は、「モルグ街の殺人」とその続編の「マリー・ロジェの謎」「盗まれた手紙」の3作、広く見積もっても「黄金虫」「お前が犯人だ」の5作程度しか書かれていないが[67]、「メルツェルの将棋指し」「暗号論」といったエッセイ、論考などを合わせて考えると、推理・分析というテーマはポーの作家人生のほぼ全体を通じて存在していたことがわかる[67]。なおポーは「モルグ街の殺人」の前年の1840年に作品集『グロテスクとアラベスクの物語』の序文に、自身の作品が批評家から「ドイツ的」で陰惨だと批判されたことを記し、もうこの種の作品は書かないだろうと宣言しており(この宣言は必ずしも守られなかったが)、ポーは病的な作風を変えようとした結果、推理小説という形式に行き着いたのではないかとも言われている[68]。
また『アーサー・ゴードン・ピムの物語』『ハンス・プファールの無類の冒険』などの冒険小説はジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズに少なからぬ影響を与えており、ポーはこれらによってSF小説のパイオニアとしての評価もなされている[69]。ポーにはこのほかに「アルンハイムの地所」「ランダーの別荘」など、風景庭園小説として括られる数編の作品がある[70]。
雑誌編集者であったポーは、雑誌という媒体を強く意識して作品を書いた最初の近代作家の一人でもあった[71]。彼は雑誌の読者である大衆の興味を鋭敏に察知して作品に反映させており[72]、その結果として骨相学[73]や観相術[74]、催眠術[75]といった疑似科学をしばしば作品で取り上げた。