『グレアムズ・マガジン』を去った後も、ポーは『ダラーズ・ニュースペーパー』の懸賞で「黄金虫」により100ドルの賞金を受けた他、「マリー・ロジェの謎」「落し穴と振り子」などの作品を各誌に発表し、1843年9月には作品集『散文物語集』を刊行するが、依然として生活は窮乏していた。新規まき直しを図るため1844年6月にニューヨークに移り、「軽気球夢譚」(『ザ・サン』紙にまるで実話であるかのように掲載され大当たりを取った)「早すぎた埋葬」「催眠術の掲示」などを発表していき、1845年10月には週刊誌『イヴニング・ミラー』の記者として迎えられた。1845年にポーが同誌に発表した詩「大鴉」は絶賛を博し、他誌にも次々に掲載されポーの文名を大いに高めたが、この詩の出版に対しポーに支払われた報酬はわずか9ドルであった[43]。ポーが晩年に起居していた、ニューヨーク・ブロンクス区にある木造家屋。
1845年2月よりポーは『ブロードウェイ・ジャーナル』に職場を移し、自作を寄稿したほか文芸時評を担当した。同誌でポーはヘンリー・ワズワース・ロングフェローを剽窃者として論難しており、ロングフェローの擁護者との間での論争に発展したが、この論争はポーの分が悪いままに終わっている[44]。6月には作品集『物語集』を出版して予想外の売り上げを収めた。文名が高まるとともに雑誌経営への希望を依然として持ち続けていたポーは、12月に『ブロードウェイ・ジャーナル』の経営権を譲り受けたが、しかし資金繰りに苦しんだ結果わずか1ヶ月で手放さなければならなくなった(翌年に廃刊)[45]。生活は窮乏し、1846年には妻を連れてブロンクス区にある木造家屋に転居した。1847年1月、ヴァージニアは貧苦の最中この小屋で息を引き取った[46]。
この年よりポーは「散文詩」と銘うった壮大な宇宙論『ユリイカ』の完成に精力を傾けた。しかし翌年この論文をもとに行なった講演は明らかな失敗に終り、7月に刊行された書籍も売れ行きは伸びなかった[47]。この頃、ポーは夜会で出合ったサラ・ヘレン・ホイットマン夫人や、講演で出合ったアニー・リッチモンド夫人と恋愛関係を持った。特にホイットマン夫人に対しては再三の求婚を行い、ポーが酒を絶つことを条件に9月に婚約が成立したものの、その後文学愛好家とバーで酒を飲んだことが夫人の耳に入り、このために婚約は破談となってしまった[48]。1849年、ポーは仕事のために戻ったリッチモンドで青年時代の恋人で未亡人となっていたエルマイラ・ロイスターと再会し、再三の求婚の後に彼女と婚約した[49]。 10月に結婚式を控えた1849年9月、ポーは自分の選集の出版準備を始め、それに関してルーファス・グリズウォールドの協力を得るために、久しぶりにニューヨークに戻ることにした。27日にリッチモンドを出、48時間の船旅のあとにボルティモアに着くと、ポーはなぜかそこに数日滞在した。ちょうどメリーランド州議会選挙のまっただ中であり、10月3日が投票日に当たっていた[50]。ボルティモアのポーの墓所。 しかし、10月3日、ポーはライアン区第4投票所にあたる酒場「グース・サージェンツ」にて、ひどい泥酔状態でいるところを旧知の文学者にたまたま発見され、ただちにワシントン・カレッジ病院に担ぎ込まれたが、4日間の危篤状態が続いたのち、10月7日早朝5時に死去した[51]。その間ポーは理路整然とした会話ができる状態でなく、なぜそのような場所で、そのような状態に陥っていたのかを話すことはなかった。ポーは発見された際、他人の服を着せられており、また死の前夜には「レイノルズ」という名を繰り返し呼んでいたが、それが誰を指しているのかも分からなかった。一説にはポーの最期の言葉は「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ(Lord help my poor soul)」であったという[52]。新聞各紙はポーの死を「脳溢血」や「脳炎」のためと報道したが、これは当時、アルコールなどのような外聞の悪い死因を婉曲に伝えるためにしばしば用いられた言葉でもあった[53]。 死亡証明書を含め、ポーの診断書は現在ではすべて紛失してしまっており[54]、死の真相は謎のままであるが[55]、1872年の早い時期から、クーピング(cooping、選挙の立候補者に雇われたならず者が、旅行者やホームレスに無理矢理酒を飲ませるなどして自己判断ができない状態にして投票所に連れて行き、場合によっては複数回投票させること。当時は有権者の身元確認がしっかりと行なわれていなかった)の犠牲になったのだとする説が広く信じられている[56]。それ以外にも、急性アルコール中毒による振戦譫妄、心臓病、てんかん、梅毒、髄膜炎[57]、コレラ[58]、狂犬病[59]などが死因として推測されている。
死
作風とジャンル「ライジーア」の挿絵(ハリー・クラーク画)。