エドガー・アラン・ポー
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当時ポーは26歳、ヴァージニアはまだ結婚不可能な13歳1か月であったが、結婚誓約書には21歳と記されていた[32]

その後ポーは『メッセンジャー』誌の創刊者トマス・ホワイトに再就職の希望を伝えて受け入れられ、10月に妻となったヴァージニアと叔母マライアとともにリッチモンドに移り住んだ。『メッセンジャー』主筆としてポーは自作の短編を発表していっただけでなく、毎号広い分野におよぶ論壇時評を書き、また苛烈な作品評を行なって評判を取った[33]。『メッセンジャー』はポーが主筆になったことによって、500程度だった発行部数が3500まではね上がり、南部の主導的な文芸雑誌の地位にまでのし上がった[34]。仕事が軌道に乗ったことから、1836年5月にポーはクレム叔母やホワイト、トマス・クリーランド知事など9名を招いてヴァージニアとの公開の結婚式を挙げた[35]

『メッセンジャー』誌は好評を取り続けたが、しかしポーは実績に見合った昇給をしてもらえず、また編集に口出しがされ始めたことで創刊者のホワイトと不仲になり始めた。就職から1年経った1837年1月、ポーは『メッセンジャー』を辞し、2月末に家族を連れてニューヨークに移った[36]。ここで編集の仕事をするつもりだったのだが、しかし依頼しておいた『ニューヨーク評論』編集のポストが不採用になり、代わりに以前『メッセンジャー』に2度掲載した長編『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の完成に力を注いだ。翌年7月に出版された『ピムの物語』はアメリカの20誌以上の新聞・雑誌に言及するなど話題作となったものの売り上げは伸びず、すでに収入減からフィラデルフィアに移っていた一家の生活はみるみる窮乏していった[37]『グレアムズ・マガジン』1839年9月号。「アッシャー家の崩壊」が掲載された。

ポーは『アメリカン・ミュージアム』誌に「ライジーア」などいくつかの作品を発表したのち、1839年、喜劇俳優ウィリアム・バートンが創刊した雑誌『ジェントルマンズ・マガジン』に依頼され、週給10ドルでこの雑誌の編集者となった。ポーは『メッセンジャー』時代の編集の経験を生かしつつ、「ウィリアム・ウィルスン」「アッシャー家の崩壊」などの短編や詩を同誌に掲載していき、その傍らリー・アンド・ブランチャード社より初の小説作品集『グロテスクとアラベスクの物語』を同年9月に刊行した。25編からなるこの作品集は非常に多数の雑誌が書評を行なったが、評価は賛否両論であった[38]

その後バートンと編集方針などで対立したため、翌年6月にポーは『ジェントルマンズ・マガジン』を辞めるが、バートンが雑誌を弁護士ジョージ・グレアムに譲渡し新たに『グレアムズ・マガジン』が創刊されるとポーは新雑誌の編集者として迎えられた。こうして11月に創刊した『グレアムズ・マガジン』では「群集の人」「モルグ街の殺人」「メエルシュトレエムに呑まれて」などの短編のほか多数の評論を発表し、1年半後には『グレアムズ・マガジン』は発行部数3万7000部を誇る、アメリカ合衆国最大の雑誌へと成長した[39]。なおポーは『グレアムズ・マガジン』時代の1842年3月には、渡米してきたチャールズ・ディケンズと面会を果たしている[40]

またこの間、ポーは雑誌の編集に携わりながら、自らも雑誌を創刊することを夢見て様々な画策を行なっていた。すでに『ジェントルマンズ・マガジン』時代に『ペン・マガジン』の名づけた自分の雑誌を構想しており、1840年には『スタイラス』と名を変えたこの雑誌の設立趣意書を発表したが[41]、この雑誌はポーの生存中に創刊されることはついになかった。自分の雑誌の構想に腐心する一方、1842年1月には妻ヴァージニアが自宅でピアノを弾いていた最中に喀血、結核の最初の兆候であり、以後ヴァージニアの病状にも気を取られ、また酒の量も増えた。こうした事情でポーは『グレアムズ・マガジン』の仕事を休みがちになり、4月になると編集長の地位を『アメリカの詩人たちと詩』を出版したばかりのルーファス・ウィルモット・グリスウォルドに奪われてしまっていた[42]。ポーは5月まで同誌に勤めた後、職を辞した。

『グレアムズ・マガジン』を去った後も、ポーは『ダラーズ・ニュースペーパー』の懸賞で「黄金虫」により100ドルの賞金を受けた他、「マリー・ロジェの謎」「落し穴と振り子」などの作品を各誌に発表し、1843年9月には作品集『散文物語集』を刊行するが、依然として生活は窮乏していた。新規まき直しを図るため1844年6月にニューヨークに移り、「軽気球夢譚」(『ザ・サン』紙にまるで実話であるかのように掲載され大当たりを取った)「早すぎた埋葬」「催眠術の掲示」などを発表していき、1845年10月には週刊誌『イヴニング・ミラー』の記者として迎えられた。1845年にポーが同誌に発表した詩「大鴉」は絶賛を博し、他誌にも次々に掲載されポーの文名を大いに高めたが、この詩の出版に対しポーに支払われた報酬はわずか9ドルであった[43]ポーが晩年に起居していた、ニューヨーク・ブロンクス区にある木造家屋。

1845年2月よりポーは『ブロードウェイ・ジャーナル』に職場を移し、自作を寄稿したほか文芸時評を担当した。同誌でポーはヘンリー・ワズワース・ロングフェローを剽窃者として論難しており、ロングフェローの擁護者との間での論争に発展したが、この論争はポーの分が悪いままに終わっている[44]。6月には作品集『物語集』を出版して予想外の売り上げを収めた。文名が高まるとともに雑誌経営への希望を依然として持ち続けていたポーは、12月に『ブロードウェイ・ジャーナル』の経営権を譲り受けたが、しかし資金繰りに苦しんだ結果わずか1ヶ月で手放さなければならなくなった(翌年に廃刊)[45]。生活は窮乏し、1846年には妻を連れてブロンクス区にある木造家屋に転居した。1847年1月、ヴァージニアは貧苦の最中この小屋で息を引き取った[46]

この年よりポーは「散文詩」と銘うった壮大な宇宙論ユリイカ』の完成に精力を傾けた。


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