エドガー・アラン・ポー
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出版費用はウェストポイント士官学校の生徒のカンパで賄われており、一人につき75セントずつ、合計で170ドルに達した(彼らはこの詩集を、ポーが以前書いて見せたような上官に対する風刺詩を集めたものと思っていたらしい)[27]。ポーの第三詩集『ポー詩集』は「アル・アーラーフ」や「タマレーン」を再録していたほか、「ヘレンへ」「海の中の都市」「イスラフェル」などの新詩を含んでいたが、あまり好評は得られなかった[28]
文筆生活

ポーはジャーナリズムの活発なボルティモアを生活の場に定め、クレム叔母の家に居候をしながら(実兄のウィリアム=ヘンリーは結核で1831年8月に死去していた)短編小説の執筆を始めた。1832年の1月、『サタデー・クオリア』誌に「メッツェンガーシュタイン」が採用され、以後同誌に「オムレット侯爵」「エルサレムの物語」「息の喪失」「バーゲンの損失(のち「ボンボン」として改筆)」が掲載、1833年からは『サタデー・ヴィジター』誌に詩や短文を掲載した。この頃ちょうど同『サタデー・ヴィジター』誌が短編と詩の懸賞を打ち出したため、ポーは『フォーリオ・クラブ物語』と名づけた短編6編と詩を投稿、このうち短編「壜の中の手記」が最優秀作に選ばれ賞金50ドルを獲得した[29]ヴァージニア・クレム

さらにポーは、このとき審査員を務めていたボルティモアの著名な政治家であり作家であった、ジョン・P・ケネディと親しくなり、彼の斡旋でリッチモンドの『サザン・リテラリー・メッセンジャー』誌に作品を掲載するようになった。さらにその後同誌の編集長が退職すると、ケネディの推薦で『メッセンジャー』誌の主筆編集者として迎えられることになった[30]。しかしこの頃、ポーはまだ少女であった従妹のヴァージニアへ求婚し、それを叔母マライアに拒絶されていたことから飲酒の量が増えるなどして心情が荒れており、『メッセンジャー』誌の職を短期間で辞してしまった[31]。しかし度重なるポーの説得にマライアが折れ、1833年9月にボルティモアの郡裁判所から結婚許可を受けた。当時ポーは26歳、ヴァージニアはまだ結婚不可能な13歳1か月であったが、結婚誓約書には21歳と記されていた[32]

その後ポーは『メッセンジャー』誌の創刊者トマス・ホワイトに再就職の希望を伝えて受け入れられ、10月に妻となったヴァージニアと叔母マライアとともにリッチモンドに移り住んだ。『メッセンジャー』主筆としてポーは自作の短編を発表していっただけでなく、毎号広い分野におよぶ論壇時評を書き、また苛烈な作品評を行なって評判を取った[33]。『メッセンジャー』はポーが主筆になったことによって、500程度だった発行部数が3500まではね上がり、南部の主導的な文芸雑誌の地位にまでのし上がった[34]。仕事が軌道に乗ったことから、1836年5月にポーはクレム叔母やホワイト、トマス・クリーランド知事など9名を招いてヴァージニアとの公開の結婚式を挙げた[35]

『メッセンジャー』誌は好評を取り続けたが、しかしポーは実績に見合った昇給をしてもらえず、また編集に口出しがされ始めたことで創刊者のホワイトと不仲になり始めた。就職から1年経った1837年1月、ポーは『メッセンジャー』を辞し、2月末に家族を連れてニューヨークに移った[36]。ここで編集の仕事をするつもりだったのだが、しかし依頼しておいた『ニューヨーク評論』編集のポストが不採用になり、代わりに以前『メッセンジャー』に2度掲載した長編『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の完成に力を注いだ。翌年7月に出版された『ピムの物語』はアメリカの20誌以上の新聞・雑誌に言及するなど話題作となったものの売り上げは伸びず、すでに収入減からフィラデルフィアに移っていた一家の生活はみるみる窮乏していった[37]『グレアムズ・マガジン』1839年9月号。「アッシャー家の崩壊」が掲載された。

ポーは『アメリカン・ミュージアム』誌に「ライジーア」などいくつかの作品を発表したのち、1839年、喜劇俳優ウィリアム・バートンが創刊した雑誌『ジェントルマンズ・マガジン』に依頼され、週給10ドルでこの雑誌の編集者となった。ポーは『メッセンジャー』時代の編集の経験を生かしつつ、「ウィリアム・ウィルスン」「アッシャー家の崩壊」などの短編や詩を同誌に掲載していき、その傍らリー・アンド・ブランチャード社より初の小説作品集『グロテスクとアラベスクの物語』を同年9月に刊行した。25編からなるこの作品集は非常に多数の雑誌が書評を行なったが、評価は賛否両論であった[38]

その後バートンと編集方針などで対立したため、翌年6月にポーは『ジェントルマンズ・マガジン』を辞めるが、バートンが雑誌を弁護士ジョージ・グレアムに譲渡し新たに『グレアムズ・マガジン』が創刊されるとポーは新雑誌の編集者として迎えられた。こうして11月に創刊した『グレアムズ・マガジン』では「群集の人」「モルグ街の殺人」「メエルシュトレエムに呑まれて」などの短編のほか多数の評論を発表し、1年半後には『グレアムズ・マガジン』は発行部数3万7000部を誇る、アメリカ合衆国最大の雑誌へと成長した[39]。なおポーは『グレアムズ・マガジン』時代の1842年3月には、渡米してきたチャールズ・ディケンズと面会を果たしている[40]

またこの間、ポーは雑誌の編集に携わりながら、自らも雑誌を創刊することを夢見て様々な画策を行なっていた。すでに『ジェントルマンズ・マガジン』時代に『ペン・マガジン』の名づけた自分の雑誌を構想しており、1840年には『スタイラス』と名を変えたこの雑誌の設立趣意書を発表したが[41]、この雑誌はポーの生存中に創刊されることはついになかった。自分の雑誌の構想に腐心する一方、1842年1月には妻ヴァージニアが自宅でピアノを弾いていた最中に喀血、結核の最初の兆候であり、以後ヴァージニアの病状にも気を取られ、また酒の量も増えた。こうした事情でポーは『グレアムズ・マガジン』の仕事を休みがちになり、4月になると編集長の地位を『アメリカの詩人たちと詩』を出版したばかりのルーファス・ウィルモット・グリスウォルドに奪われてしまっていた[42]。ポーは5月まで同誌に勤めた後、職を辞した。

『グレアムズ・マガジン』を去った後も、ポーは『ダラーズ・ニュースペーパー』の懸賞で「黄金虫」により100ドルの賞金を受けた他、「マリー・ロジェの謎」「落し穴と振り子」などの作品を各誌に発表し、1843年9月には作品集『散文物語集』を刊行するが、依然として生活は窮乏していた。


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