エドゥアール・マネ
[Wikipedia|▼Menu]
マネの死後、1890年にモネの働きにより『オランピア』が国のリュクサンブール美術館に受け入れられ、1896年ギュスターヴ・カイユボットの遺贈により『バルコニー』などが政府に受け入れられるなど、マネに対する公的な認知は進んだ。もっとも、これらの受入れの際にも美術界の保守派からは反対の声が上がり、マネと印象派に対する抵抗は根強いものがあった(→名声の確立)。しかし、その後、美術市場でのマネの評価は急速に上がり、1989年には『旗で飾られたモニエ通り』が2400万ドル(34億7520万円)で落札され、2014年には『春(ジャンヌ)』が6512万ドル余り(約74億円)で落札されるなど、美術市場の上位を占めるに至っている(→市場での評価)。

マネの油彩画は400点余りとされている(→カタログ)。マネは、保守的なブルジョワであり、サロンでの成功を切望していたが、『草上の昼食』と『オランピア』は本人の意図と裏腹にスキャンダルを呼び、美術界の革命を起こすことになった。主題の面では、娼婦の存在や、近代社会における人間同士の冷ややかな関係をありのまま描き出したことが、革新的であり、非難の的ともなった。造形の面では、陰影による肉付けや遠近法といった伝統的な約束事にとらわれない描写を生み出していった(→時代背景、画風)。同時に、伝統的なイタリア絵画、スペイン絵画、フランス絵画から学んでいる点も多く、オールド・マスターの作品から主題やモチーフを引用し、現代的な文脈に置き直していったといえる(→伝統的絵画からの影響)。また、平面的な彩色やモチーフを切り取る構図などに日本の浮世絵の影響を受けていると考えられる(→ジャポニスム)。印象派の画家たちから敬愛され、彼らに大きな影響を与えた一方、マネ自身が後輩の印象派から影響を受けた。マネには印象主義的な要素の濃い作品もあるが、印象派グループ展には参加していないことから、印象派には含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である(→印象派との関係)。マネの作品は、セザンヌゴーギャンピカソなどによって、模倣や再解釈の題材とされており、彼らの芸術に様々な影響を残していると考えられる(→印象派以後への影響)。
生涯
出生、少年時代プティ=ゾーギュスタン通りに残るマネの生家の門。エコール・デ・ボザールの目の前である[4]

マネは、1832年、パリのプティ=ゾーギュスタン通り(現在のボナパルト通り(英語版))で、裕福なブルジョワジーの家庭に長男として生まれた。マネの父オーギュストは、法務省の高級官僚(司法官)で、共和主義者であった。母ウジェニーは、ストックホルム駐在の外交官フルニエ家の娘であった。マネの弟に、ウジェーヌ(1833年生)とギュスターヴ(1835年生)が生まれた[5]少年時代のマネ(1846年頃)。

1844年から1848年まで、トリュデール大通りの中学校コレージュ・ロラン(フランス語版)に通った。父は、マネが法律家の道を継ぐことを望んでいた。一方、母方の伯父エドゥアール・フルニエ大尉は、芸術家肌の人物で、マネにデッサンの手ほどきをしたり、マネら3兄弟や、マネの中学校の友人アントナン・プルースト(後に美術大臣)をルーヴル美術館に連れて行ったりした。マネは、この頃から、絵画に興味を持っていたようであり、ルイ・フィリップがルーヴル美術館に設けたスペイン絵画館で17世紀スペインのレアリスム絵画に触れ、影響を受けた。プルーストの回想によれば、コレージュの歴史の授業で、画家が流行遅れの帽子を描いていることをドゥニ・ディドロが批判した展覧会評を読んだ時、マネが、「ぼくたちは、時代に即していなければならない。流行など気にせず、見たままを描かなければならないんだ。」と発言したという。また、伯父フルニエが絵画の課外授業に出席させてくれたが、言われたお手本を模写するのではなく、近くにいる生徒たちの顔をスケッチしていたという[6]

マネは、芸術家の道を不安視する両親の意向を受け、水兵(海軍将校)になると父に宣言して海軍兵学校の入学試験を受けたが、落第した。1848年12月、実習船に乗ってリオデジャネイロまで航海した。後に、マネは、「私はブラジル旅行でたくさんのものを得た。毎夜毎夜、船の航跡のなかに、光と影の働きを見たものだった! 昼間は上甲板で、水平線をじっと見つめていた。それで、空の位置を確定する方法がわかったのだ。」と述べている[7]1849年6月にパリに戻ると、海軍兵学校の入学試験を再び受けたが、また落第した。これに父も諦め、マネは芸術家の道を歩むことを許された[8]
修業時代(1850年代)マネが1849年-1856年(17-24歳頃)師事したトマ・クチュール

マネは、1849年秋頃、トマ・クチュールのアトリエに入り、ここで6年間修業した。クチュールは、1847年サロン・ド・パリに『退廃期のローマ人』を出品して成功した、当時のアカデミズム絵画界の中では革新的な歴史画家であった。マネは、クチュールの近代性から影響を受ける反面、伝統的な歴史画にこだわるクチュールの姿勢には反発した。マネがモデルに服を着させたままポーズをとらせていると、クチュールが入ってきて、「君は君の時代のドーミエにしかなれない」と批判した。また、マネは、アトリエで学ぶ傍ら、ルーヴル美術館でティントレットティツィアーノ・ヴェチェッリオフランソワ・ブーシェピーテル・パウル・ルーベンスなどの作品を模写した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:276 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef