エトルリア
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臓卜師 (haruspex) は占いによって神々の意志を諮り、「神々の平和」を守り、ひいては地上の平和を守るため、儀式や祭祀を厳粛に遵守した[11]

このようなエトルリアの占いは、共和政ローマに取り入れられ、ローマ人は『エトルスキ教典』をラテン語に翻訳すると、60人の臓卜師集団を編成して重用した。彼らは帝政ローマ時代に至るまで活動し、キリスト教が国教化されると禁止されたという[12]
女性の地位

タルクイーニアに残された壁画には、宴会に妻が同席していた様子が描かれており、宴会は男だけが参加するものであった古代のギリシャ人によって、長らくエトルリア女性は非道徳的であるとされてきたが、女性の墓からは機織り道具などが見つかっており、また夫婦と思われる男女の横たわる石像がルーブル美術館などに残っていることから、エトルリア人も古典的な理想の母性像を持っていたことが覗われ、夫婦仲も忍ばれるものとなっている[13]。また、エトルリア女性は、ノーメン(氏族名)の女性形だけで表されたローマ人の女性と違い、プラエノーメン(個人名)も持っていたという。このことからも、エトルリアでは女性の独自性が他の周辺地域と比べれば認められていたものと推測される[14]
ヴィッラノーヴァ時代

「ヴィッラノヴィアーノ」という名は、1850年に、考古学愛好家であるジョヴァンニ・ゴッツァディーニ伯爵が、非常に変わった特徴をもつ共同墓地を発見したボローニャ郊外の小さな町ヴィッラノーヴァ(現在のカステナーゾの一地区)に由来する。埋葬の特徴というのは、円錐を2つ合わせた形の骨壺(死者の遺品を納める)で、椀形の蓋をもち、大きな石のプレートで囲まれた空間に置かれていた。

研究者たちは、この文化の“準備期間”にあたるものが青銅器時代末期(紀元前12 - 10世紀)のマントヴァウンブリアトスカーナカンパーニアシチリアリーパリ島に見られるとしている。ここにはすでに、のちのヴィッラノーヴァ文化(英語版)で導入されるすべての要素の前触れがある。それらは南イタリアの国々では、早くに現れたギリシア植民都市建設(紀元前8世紀)の影響のために、それ以上発展することはなかった。頻繁に見られる要素の1つとして、遺灰(火葬)を納めるための骨壺がある。多くのタイプがあり、精密な装飾が施されたものも多い。直線や分割、刻印、幾何学的模様によって芸術的効果が加えられたが、使われた粘土は粗いものだった。

兵士の埋葬の場合は、円錐を2つ合わせた形の骨壺に銅製の兜で蓋がされた。この習慣が伝わったラツィオでは、遺灰を両円錐型の壷ではなく、羊飼いの小屋の形をした壷に納めることがあった。

イタリア半島では地方文化が生まれ、発展し、それはしばしばその土地の自然と結びついていた。マルケ北部、アブルッツォラツィオ北部、イルピニア、サンニオカラブリアでは遊牧生活が続けられ、一方トスカーナとトスカーナの列島には、地中海東部からを求める航海者たちがやってきた。鉄は当時、貴重な金属の1つだった。青銅の使用も続いたが、それまでのように一般用ではなく、小さな装飾品や奉納用の小像、宗教用具に使われた。地方ごとの違いは大きかったが、この時代には公共生活と、そして何らかの形でのイタリア各地の集落間の連携の必要性が感じられ、共同墓地をもつ、初期の都市型の集落が形成され始めた。

共同墓地は、実際に古代に定住があったことを証明している。海の近く、海岸から数キロメートルのところに集落を形成する一般の傾向に反して、隔離された、住むのに適さない、変わった内陸の環境に居を定めているように見て取れる。唯一のエトルリア海洋都市は、おそらくポプロニア(英語版)であり、ほかは後背地に位置をとっているが、これは海賊の来襲を恐れたためである。すなわち、クレタ人ミケーネ人に代わって、何者かが鉄を求めてこの資源豊かなエトルリアの土地、イタリア沿岸を訪れていたことがわかる。

とにかく、ポプロニアのように海に面した、それもエルバ島の正面という場所柄には理由がある。ここはおそらく、ヴィッラノーヴァ期の銅・製品の主要積出港であり、後にエトルリア期に入って、“鉄の港”となったのである。研究者たちが偽アリストテレスと呼ぶ古代の無名著作家は、ポプロニアでは銅を産出したと記しており、実際に銅くずや、加工工場の跡が見られる。のちにポプロニアは、エルバ島産の鉄の加工で非常に重要な地となった。

港の内部、現在のバラッティ湾には2つの集落と、サン・チェルボーネとポッジョ・デッレ・グラナテという2つの異なるネクロポリスがある。そこには火葬用井戸型墓と、その後の時代の方形墓がある。これらの墳墓と、石室墳墓で、副葬品は同じである。

ヴィッラノーヴァ人は、鉱物や建築資材を掘り出すために多くの時間を費やしたことがわかる。トスカーナとラツィオで採掘跡が見つかっている。鉱物を含む丘とその一帯では、銅、銀を含む鉛、錫石が、チェチナ渓谷では銅、鉛、銀、アミアータ山(英語版)では水銀をふくむ岩があり、トルファ山地(英語版)では鉄鉱石、鉛、亜鉛、水銀、エルバ島では鉄、ラツィオ北部では火山性凝灰岩砂岩石灰岩が、北部エトルリアではトラバーチンアラバスターが産出した。

最近の研究では、最も古いエトルリアのヴィッラノーヴァ人は、3つの大きな定住地に集中していたとされる。1つ目はチヴィタヴェッキアとブラッチャーノ湖(英語版)の間のトルファ山地を含む地域、2つ目はヴルチの考古学ゾーンとボルセーナ湖の東、ラモネの森の間のフィオーラ川(英語版)渓谷中腹、3つ目はラディコーファニキウージチッタ・デッラ・ピエーヴェの間のチェトーナ周辺丘陵地帯である。

おそらく3つの定住地は、自給自足の独立した経済と、港から積み出す鉱物の加工・採掘をもとに関係を持っていた。その他の重要な活動としては農業があった。

ヴィッラノーヴァ人は、その最盛期にはエミリア=ロマーニャから南イタリアにも及ぶ非常に広範な地域に広がっていた。


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