フッサールの目標は、「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!) という研究格率に端的に表明されている。つまり、いかなる前提や先入観、形而上学的独断にも囚われずに、現象そのものを把握して記述する方法を求めたのである。そして、その過程で、フッサールの「現象学」の概念も修正されていった。下記においては、フッサールを活動時期によって1.前期 2.中期 3.後期の3つに分け、各々の時期に考案された主要な概念を取り上げて叙述する。 前期を代表する著書は、『論理学研究』である。フッサールが著作活動を始めた19世紀のヨーロッパは、後に「科学の世紀」「歴史の世紀」と呼ばれる時代であった。ガリレオ・ガリレイによって物理学の基礎付けに数学が導入されて以降、自然科学は飛躍的に発展した。その一方で、哲学は、「大哲学」の地位を追われて、新○○派といった様々な哲学的立場が乱立して、それぞれの世界像が対立していた。そのため、諸学の学問的基礎付けを求めて、さまざまな研究が進められていた。
現象学
前期(記述的心理学としての現象学)
数学の研究者から出発したフッサールの関心も、当初は心理学から数学を基礎付けようとするものであった。『算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―』は、そのような立場から書かれた著書である。しかし、そこでは心理学という「一つの理論」が前提とされており、そのような方法では、現象そのものを直接把握することができないとフッサールは考えた。
そこで、フッサールは、フランツ・ブレンターノの「志向性」(de:Intentionalitat
) の概念を継承し、現象によって与えられる心的体験を直感的明証的に把握し、あらゆる前提を取り払った諸学の学問的な基礎付けを求めた。ブレンターノは、物理的原因から心理現象が発生することを理論的に説明する「発達的心理学」を批判して、心理現象が対象への「志向性」を持つ点で、物理現象と区別されるとして「記述心理学」の立場を明らかにした。そして、その上で「意識」が必ず対象を指し示すことを「志向的内在」を呼んだ。言い換えると、「意識」とは、例外なく「何かについての」意識であることを意味する。そこでは、デカルト的な心身二元論のように、「意識」がまず存在し、その後で対象が確認されるのではなく、「意識」と「対象」が常に相関関係にあるとされる。
ブレンターノの記述的心理学においては、志向対象とその「内容」が区別されていなかった。しかし、フッサールは、意識から生まれ出る「内容」に関して対象をとらえた。たとえば、「丸い四角」という概念は、対象としては存在しない。しかし、それが内容として矛盾しているという意味は存在する。矛盾や背理法といった論理学の概念や法則は、いつでも、だれでも、どこでも、普遍的に共通するというイデア的な意味を有している。真の学は、普遍的な本質認識を求めるものであるため、単なる事実研究からは、偶然的な認識しか得られない。したがって、論理学の諸概念や諸法則のイデア的な意味をすべて取り出すためには、前提となりうるすべての理論を取り払った「直感」によって把握するしか方法がなく、その直感も完全に展開された明証的なものでなければならない。そのような方法によって記述される論理学は、「純粋論理学」である。純粋論理学が成立するためには、それが認識論によって基礎付けられていなければならない。そして、そのためには、現象学的な分析が必要であり、事あるごとに常に「事象そのものへ」へ立ち返り、繰り返し再生可能な直感との照合を繰り返すことによって、イデア的意味の不動の同一性を確保するために、不断に努力しなければならないとし、そのために記述的心理学には「現象学」が必要であるとしたのである。 フッサールの中期を代表する著書は、『イデーン』である。フッサールは、『論理学』において現象学を記述心理学と位置づけて、あらゆる前提を取り払った純粋記述として、自我の心理作用を記述しようとした。しかし、それでもなお、意識を自我の心理作用として解釈する心理学的な「一つの解釈」を前提にしており、心理学主義との批判を受ける余地があった。そこで、フッサールは、そのような解釈も含めて、すべての解釈を遮断する方法として「現象学的還元」が、また現象学的還元を方法として得られる個々の純粋現象の本質構造を明らかにする方法として「本質直感」が必要となるとするに至った。 日常的に、私たちは、自分の存在や世界の存在を疑ったりはしない。なぜなら、私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを知っているからである。フッサールは、この自然的態度を以下の3点から特徴づけ批判する。 このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは、世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や理論を禁止する(このような態度をエポケーという)ことで、意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。 このように現象学的還元によって得られた、自然的態度を一般定立されている世界内の心ではない意識を「純粋意識」という。 既に述べた通り、「意識」とは、例外なく「何かについての」意識であり、志向性を持つ。したがって、純粋意識の純粋体験によって得られる純粋現象も、志向的なものである。そして、このような志向的体験においては、意識の自我は、常に○○についての意識として、意識に与えられる感覚与件を何とかしてとらえようとする。フッサールは、ギリシア語で思考作用をさす「ノエシス」と、思考された対象をさす「ノエマ」という用語を用いて、意識の自我が感覚与件をとらえようとする動きを「ノエシス」、意識によって捉えられた限りの対象を「ノエマ」と呼んだ。
中期(超越論的現象学)
現象学的還元(超越論的還元及び形相的還元)
認識の対象の意味と存在を自明的としていること
世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組みを、暗黙の前提としていること
世界関心への没入による、意識の本来的機能の自己忘却
ノエシス/ノエマ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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