エディ・スロヴィク
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前線に出るよりは部隊に残って収監された方がいいとばかりに、部隊内では脱走や犯罪が増え始めていた(実際にヒュルトゲンの戦いはアメリカ側にドイツ側よりはるかに多い3万人以上の犠牲が出る無残な戦いとなり、第28歩兵師団は壊滅し、「赤い要石」の師団章[注釈 1]は「血のバケツ」とあだ名されることとなった)。脱走に厳罰で当たらねばならないという背景の中、スロヴィクの軍法会議は行われた。

スロヴィクは危険な任務を忌避して脱走したとして起訴され、1944年11月11日軍法会議にかけられた。この軍法会議で、検察官のジョン・グリーン大尉はスロヴィクが「逃げる」という意思を示した者を証人にたてた。これに対し弁護人のエドワード・ウッズ大尉は「スロヴィクが証言しない事を選んだ」と述べた。9人の士官からなる陪審はスロヴィクに有罪を言い渡し銃殺刑[注釈 2]が宣告された。判決は第28歩兵師団長ノーマン・コータ少将の承認を得られた。

1944年12月9日、スロヴィクは連合国軍最高司令官、ドワイト・D・アイゼンハワー大将へ減刑の嘆願書を送る。しかし脱走は当時重大な問題であり、アイゼンハワーは12月23日、嘆願を却下して死刑執行命令にサインした。銃殺刑は1945年1月31日の午前10時04分に、フランスのアルザスにある鉱山村、サント=マリ=オ=ミーヌ(Sainte-Marie-aux-Mines)で執行された。スロヴィクは24歳だった。

彼は現地の墓地に、殺人強姦などの罪で処刑された他のアメリカ兵95人とともに埋葬された。彼らの遺体の上に置かれた石には名前がなく番号のみだったため、どれがスロヴィクの遺体か確かめる術はなかった。1987年、処刑から42年後、ロナルド・レーガン大統領の許可を得て、本人と確認されたスロヴィクの遺体はデトロイトに戻り、1979年に死んだ妻アントワネットの横に埋められた。それまで彼女や親族らは7代の大統領に嘆願書を送ってきたが、許可されなかったのである。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ File:US28th_Infantry_Division.svg
^ 罪人として死ぬ絞首刑と異なり、軍人としての身分で死ぬ刑罰である

出典
外部リンク

The Execution of Private Slovik by William Bradford Huie.

Eddie Slovik at findagrave.com.

The Sad Story of Private Eddie Slovik

The Execution of Private Slovik - IMDb(英語)

The Execution of Pvt. Eddie Slovik from The Detroit News.

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