エディ・コクラン
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結果的に二人の別れは双方の音楽キャリアに最高のものをもたらした。この後ハンクはナッシュビルに赴き数々ののヒット曲を送り出し、カントリー・ミュージックの殿堂入りを果たす[2]

「アメリカン・ミュージック」はハリウッドのカウボーイ映画で使用される曲の需要を見越してシルベスター・クロスが1935年に設立した音楽出版社。サン・オブ・ザ・パイオニアズの「クール・ウォーター」(1947)がヒット。マール・トラヴィス、デルモア・ブラザース等の数々のウェスタン・スタンダードを発表、1950年代初頭には西海岸の最重要出版社となっていた。1954年自社専属ライターのためのコンセプト・レーベル「クレスト(Crest)」を立ち上げ、急速に変化する音楽シーンに対応すべくカントリー、R&B、ノヴェルティのレコード制作を行っていた[2]

シンガー、ギタリストとして独り立ちすることになったエディは7月から8月にかけ多数のセッションを行う。その中からリトル・リチャードの「ロング・トール・サリー(のっぽのサリー)」にちなんで書かれた「スキニー・ジム(やせっぽちのジム)」がクレスト最初のシングルとして7月に発売される[2]
映画出演Jayne Mansfield

7月エディとケープハートは低予算の映画のBGMを録音するためスタジオにいた。居合わせたケープハートの知人でもある映画監督のボリス・ペトロフはエディの映画向きの顔立ちを見るとに「私の知人の映画に出演する気はあるかい?」と尋ねた。エディ生前のインタビューによると「最初は冗談だと思ったけど彼に『いいね!後で君に電話するから。』と言われた。翌日電話で『歌は歌えるか?』と聞かれ半分ジョークに付き合う気分で『歌える』と答えた。僕はスタジオミュージシャンであって歌手では無かったからね。そして「トゥエンティ・フライト・ロック」のデモ・ディスクを作る事になった。」[2]

問題の映画「ド・レ・ミ」は20世紀フォックスの音楽ディレクター、ライオネル・ニューマンとリバティの経営者サイモン・ワーナー(Simon Warner)の間で交わされたミュージシャンの供給などを含めた業務提携により実現した音楽映画で、出演するミュージシャン11人中5人がリバティー専属である事が保証されていた。ジェーン・マンスフィールドとエドモント・オブライエンが主演、一般作品同様の予算が割り当てられ各方面から注目を集めていた。「ド・レ・ミ」のタイトルは出演者リトル・リチャードが撮影中にヒットさせていた曲「女はそれを我慢できない」に改題、12月に公開される。エディは作品中「トゥエンティ・フライト・ロック」を演奏[2]

12月、エディはもう一つの映画に出演する。ワーナー・ブラザース制作「アンタムド・ユース(Untamed Youth)」はマミー・ヴァン・ドーレン(Mamie Van Doren)が主演する10代向けの映画、作品中エディは「コットン・ピッカー」を歌っている。「ミス・ドーレンの熱いグラインドと歌唱が精力旺盛なアメリカの若者を目覚めさせる事を保証する。」(ニューヨーク・タイムズ紙)[2]
リバティとの契約

リバティ・レコードは1955年に設立した新興レーベルだったが開設早々ジュリー・ロンドンの「クライミー・ア・リヴァー」がミリオンセラーを記録、チップ・モンクスなどのノヴェルティがヒットし急成長を遂げていた。唯一カタログに欠けていたもの、それは「ロックンロール・シンガー」だった。この年の1月RCAヴィクターからメジャーデビューしたエルヴィス・プレスリーは瞬く間にヒット・チャートを席捲、各レコード会社は「ポスト・エルヴィス」探しに躍起になっていた。「女はそれを我慢出来ない」出演がきっかけとなり9月8日、エディとリバティは1年の契約を交わす[2]
1957年
バルコニーに座って

ABCパラマウントはノースカロライナ州の「コロニアル(Colonial)」レーベルをリバティと競合の末に買収した。敗れた形のリバティは負けじとコロニアル専属であるシンガーソングライター、ジョニー・ディー作曲「バルコニーに座って (Sittin' in the Balcony)」をエディ最初のシングルに決定する。当初「女はそれを我慢出来ない」の公開に合わせ「トゥエンティ・フライト・ロック」のリリースが予定されていたが[注釈 5] 急遽変更となった。「私とエディはワロンカーからリバティのオフィスに呼ばれ『バルコニーに座って』の録音を伝えられた。エディは私にこう言った。『オヤジさん、[注釈 6] これは売れると思うよ。』急ぎの仕事だったが完全な物に仕上げる必要があった。3日後の午後8時にリバティのスタジオに入り録音が終了したのは夜明け前だった。」(ジェリー・ケープハート)「スタジオでプレイバックを聴いた時、出来の悪さに失望した。この曲がミリオンセラーになった時、僕自身が一番驚いた。」(エディ・コクラン、NMEのインタビューに対して)[2]

3月にオリジナルのジョニー・ディー盤と共にホット100入り、ジョニー(38位)、エディー(18位)の全国ヒットとなった。だがフォローアップのための続く2枚のシングル「ミーン・ウェン・アイム・マッド/ワン・キス」(5月)「ドライブ・イン・ショウ/アム・アイ・ブルー」(7月)は振るわず、かろうじて「ドライブ?」が82位となっただけだった。10月ジーン・ヴィンセントリトル・リチャードと共にオーストラリア・ツアー。同国ではこの年の1月にビル・ヘイリージョー・ターナーらが大規模なロックンロール・ショウを成功させており二度目のロックスターの来訪となっていた。この公演の最中リトル・リチャードは突然引退を宣言、シドニーのハーバー橋から所持する宝石を投げ捨てている[2]
1958年

エディとケープハートはリバティ経営者ワロンカーの同意を得てリバティ主導の選曲や録音とは別に独自のマスター制作を開始する。出版社アメリカン・ミュージックがデモ制作の費用を持ち、その代わり自社スタッフライターが曲を提供する、というものだ。これによってエディは制作の自由度が広がり、当時としては珍しいセルフ・プロデュースを行うことになった[2]

1月12日「ジニー・ジニー・ジニー」録音。ジョージ・モトラ(George Motola)とその妻リック・ペイジ(Rick Page)によって書かれたこの曲はエディとジミー・マディン(Jimmy Maddin)の競作となった[注釈 7]
サマータイム・ブルースEddie Cochran 1957

「ラブ・アゲイン」と言う曲のB面に関してエディとケープハートの間で打ち合わせが行われた。


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