エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール
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ポンパドゥール夫人の死後も筆頭大臣の地位を保ったショワズールだったが、その失脚はデュ・バリー夫人によってもたらされた。ショワズール自身遅かれ早かれこういうことになるだろうと思っていたようである。もともとデュ・バリー夫人に批判的だったショワズールだったし、新しい愛妾を利用してショワズールを失脚させようとする政敵も多かったが、直接の引き金を引いたのはデュ・バリー夫人を盛んに攻撃したショワズールの妻と妹グラモン公爵夫人であったという。ショワズールはデュ・バリー夫人よりもその後ろのリシュリュー元帥を敵と見なしていたようである。その後のフランス政治はモプー、デギュイヨン公、アベ・テレが政務を執り、しばらく三頭政治と言われる体制になる。隠遁命令を受けて田舎に引っ込んだショワズールは回想録の作成にいそしんだ。

死去したとき、ショワズールは巨額の借金を残した[1]。膨大な財産を継承し、重職を長くしかも掛け持ちで務めてその給与も莫大であったというのに、それほどに散財していたわけである。夫人に対して、自分は国家に長く大きく貢献したのだから国王に頼んで何とかしてもらってくれと言い残したという話はたいていの本が引用している。

ショワズールの回想録はルネ・ルイ・ド・ダルジャソンの日記と並んでこの時代の政治史の有名な一次資料であって、よく引用されるが、その中でルイ15世に対する批判はかなり厳しい。
その他

ショワズールは
ヴォルテールと交流があり、ヴォルテールにフリードリヒ大王との文通の書面を提出させていたが、それは大王も知っていた。つまり、ショワズールとフリードリヒ大王の間にはヴォルテールを介して「裏口」が出来ていた訳である。

同様に有名なルイ15世の秘密外交にいつも悩まされた。ある時はサンジェルマン伯爵を追いかけ、ある時はシュヴァリエ・デオンの起こした騒ぎの扱いに苦慮した。

脚注^ a b c Chisholm 1911, p. 261.

参考文献

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公職
先代
フランソワ=ジョアシャン・ド・ピエール・ド・ベルニフランス外務大臣
1758年 - 1761年次代
セザール・ガブリエル・ド・ショワズール=プララン
先代
シャルル・ルイ・オーギュスト・フーケ・ド・ベル=イルフランス陸軍大臣
1761年 - 1770年次代
ルイ・フランソワ・ド・モンティナール
先代
ニコラ・ルネ・ベリエフランス海軍大臣
1761年 - 1766年次代
セザール・ガブリエル・ド・ショワズール=プララン
先代
セザール・ガブリエル・ド・ショワズール=プラランフランス外務大臣
1766年 - 1770年次代
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