ウォリック伯は既に国政に関して、行使どころか影響さえ与えられなくなっていた。増大するウォリックの不満にもかかわらず、エドワード4世と彼の新しい政権は誰も、その不満が反乱に至る程のものとは考えていなかった。しかしウォリック伯としては反乱を起こす動機としては充分であり、ここでウォリック伯の気持ちが反乱に転じた。この反乱の同志として、次期イングランド王を餌に、クラレンス公も加わっていた。 北方の小さい反乱を鎮圧するため、国王がそちらに向かった。その留守を狙って、ウォリック伯はスパイを使って、エドワード4世が実は私生児であり、クラレンス公こそがヨーク家の正当な後継者であるといううわさを広めた。 北方で、ウォリック伯の部将で「レデスデールのロビン(Robin of Redesdale)」と名乗る人物(実はウィリアム・コンヤーズ卿
反乱の勃発
7月12日、ウォリック伯とクラレンス公は反乱軍に対する支援を表明した。18日、ウォリック伯は反乱軍を支援するために、軍を率いてロンドンを発った。
反乱軍はウォリック伯に合流するため、急いで国王の軍を迂回して南進した。だがエッジコート・ムーアで、ペンブルク伯・デヴォン伯の軍と遭遇した。両軍は25日に相手の存在に気づき、26日の早朝に戦端を開いた。 緒戦は、夜のうちに数マイル離れた近隣の村に滞陣したデヴォン伯のウェールズ人弓兵によって、一方的な展開となった。反乱軍は川を渡って攻撃し、ペンブルク伯に後退を余儀なくさせた。ペンブルク伯は後退してもなお攻撃を受けたが、デヴォン伯が到着するまで勇敢にも防ぎぬいた。 午後1時、ペンブルク伯は待ち焦がれていた、「デヴォン伯が全軍を率いて急速進軍」との知らせを受け取った。しかしそれと同時に、ウォリック伯の前衛部隊も戦場に到着したのだ。 これによって反乱軍の士気は直ちに上がった。敵軍の中にウォリック伯軍の姿を見たペンブルク伯軍の兵士たちは、ウォリックの精兵達の力の方が自分たちよりも上であると推測した。国王軍は(恐らくデヴォン伯が到着する前に)四散し、戦場から逃亡した。 典拠管理データベース: 国立図書館
戦闘の経過
⇒イスラエル
アメリカ