エチオピア
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アフリカ最古の独立国であり、現存する世界最古の独立国の一つである[7]。また、インド・ヨーロッパ語族言語とアラビア語のどちらも公用語となっていない、アフリカで唯一の国である。

エチオピアの人口は、2020年時点で1億1,496万人となっている[8]。およそ3,000年の歴史をもち、80以上の民族がそれぞれの文化を持って共存している多民族国家である[9]

北隣のエリトリア1993年に分離独立したことで[2]、海に面する国土を持たない内陸国となった。他に陸上の国境を接する国は、東がソマリア、北東がソマリランドジブチ、北西がスーダン、西が南スーダン、南がケニアである。
国名

各公用語による正式名称は、

アムハラ語: ?????? ????? ??????? ?????(ラテン文字転写:Ityop'iya Federalawi Demokrasiyawi Ripeblik)。通称、?????? (Ityop'iya  聞く[ヘルプ/ファイル])。

アファル語: Ityoppiah Federalih Demokrasih Ummuno。通称、Itiyobbiya。

オロモ語: Rippabliikii Federaalawaa Dimookraatawaa Itiyoophiyaa。通称、Itoophiyaa。

ソマリ語: Jamhuuriyadda Dimuqraadiga Federaalka Itoobiya。通称、Itoobiya。

ティグリニャ語: ??????? ????? ??????? ?????(ラテン文字転写:Nay-Itiyop'iya F?d?ralaw? D?mokiras?yaw? R?pebil?ki)。

公式の英語表記は、Federal Democratic Republic of Ethiopia。通称、Ethiopia(イースィオゥピア)。

日本語の表記は、エチオピア連邦民主共和国[2]。通称、エチオピア。他にエティオピアとも表記される。

アイトスオプシア(ギリシア語で陽に焼けた人の国)がもとで、のちにエチオピアとなった[10]

ヨーロッパ人にはアビシニアと呼ばれていたが、1270年から1974年までの長きにわたりエチオピア帝国と称してきた(1936年からの5年間、イタリア領東アフリカに編入された時期を除く)。1974年クーデター後、1987年まで社会主義エチオピア1991年までエチオピア人民民主共和国と称し、1995年憲法改正によりエチオピアとなったが、同年に再度の憲法改正により現在のエチオピア連邦民主共和国となった。
歴史詳細は「エチオピアの歴史」を参照
古代・中世ギリシャ語が刻まれたアクスム王国の硬貨

エチオピアには元々ネグロイドの先住民が住んでいたが、イエメンサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王サバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国100年?940年)が、紅海沿岸の港町アドゥリス(英語版)(現在のエリトリアマッサワ近郊)を通じた貿易で繁栄した。3世紀のものと思われるアクスムの戦勝碑には、ゼウスポセイドーンアレースなど、ギリシャの神々の名が見られる。この事から、この時代のエチオピアは、ギリシャローマなど、地中海世界の影響を強く受けていたと考えられている[11]

全盛期は4世紀で、このころはコプト正教会伝来の影響が見られ(コプト正教会伝来以前はサバ王国から伝わった月崇拝を宗教としていた)、クシュ王国を滅ぼして、イエメンの一部まで支配したとされる。アクスムはヒジュラで預言者ムハンマドと最初の信者達を匿ったため、イスラム帝国が紅海とナイル川の多くの支配権を得て、アクスムが経済的に孤立していってもアクスムとムスリムは友好関係を保ち、アクスムが侵攻されたり、イスラム化されたりすることはなかった。アクスム王国は、10世紀ごろにベタ・イスラエル[注釈 1]の女首長グディト(英語版)に滅ぼされたという説とアクスムのやや南方のラスタ地方から台頭してきたアガウ族(英語版)のザグウェ朝(ca.1137,ca.1150 - 1270)に滅ぼされたという説がある。
エチオピア帝国詳細は「エチオピア帝国」を参照

エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガスト(「王(ネグス)の中の王」という意味)と呼ばれた。王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていなかったりした時は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれた。
ザグウェ朝

ザグウェ朝エチオピア帝国(1137年?1270年)は、13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ(英語版)王のときが全盛期で、首都ロハ(現ラリベラ)には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。
ソロモン朝

イクノ・アムラクの建てた王朝はソロモン朝(英語版)エチオピア帝国(1262年-1974年)と呼ばれる。ソロモン朝は、アムデ・ション1世(英語版)以降15世紀のゼラ・ヤコブ(英語版)まで全盛を誇り、エジプトのマムルーク朝に大きな態度をとることすらあった。
諸公侯時代

しかし、16世紀以降ムダイト朝(英語版)オーッサ・スルタン国1734年?1936年)が強勢となってソロモン朝の力は衰え、1679年から1855年ごろまで諸侯が抗争する群雄割拠の時代となった(諸公侯時代)。
ソロモン朝の中興19世紀末のエチオピアエチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世アフリカ統一機構ラスタファリ運動カリスマ的存在となり、世界各地の黒人に大きな希望を与えた。

諸公侯の群雄割拠を抑えて再び統一へ向かわせたのがテオドロス2世であり、ソロモン朝中興の主とされ、近代エチオピアは彼の治世に始まったとされる。メネリク2世の19世紀の末にイタリアの侵略を二度受けたが、1896年アドワの戦いによって、これを退けた(第一次エチオピア戦争)。このことは、アフリカの帝国がヨーロッパ列強のアフリカ分割を乗り切り独立を保ったという画期的な出来事だった。これにより、エチオピアはリベリアと並んでアフリカの黒人国家で独立を守り切った国家となった。

1930年11月2日に皇帝に即位したハイレ・セラシエ1世は、即位後エチオピア初の成文憲法となったエチオピア1931年憲法大日本帝国憲法を範として制定した[12]


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