東の隣国ソマリアとの関係では、かつて大ソマリ主義を掲げていた関係で問題を抱えている。国内にソマリ人居住地域のオガデンを抱えるエ チオピアは、その帰属をめぐって1977年にソマリアとオガデン戦争を起こした[42]。メンギスツ政権は、キューバ軍の直接介入とソ連軍の軍事援助を得たこともあって、1988年に勝利したものの、以後も両国の関係は良好とは言い難かった。
1991年にソマリアのモハメド・シアド・バーレ政権が崩壊しソマリアが無政府状態となった後、2006年にイスラム原理主義組織のイスラム法廷会議がソマリア首都モガディシュを制圧し国土統一の動きを見せると、隣国に於けるイスラーム主義過激派の伸張を嫌うエチオピアはソマリア国内への干渉を強化。同年12月24日、エチオピアはソマリア暫定連邦政府を支援してソマリア侵攻を開始した。
軍事力に勝るエチオピア軍は28日にはモガディシュを制圧し、イスラム法廷会議軍をほぼ駆逐したものの、オガデン戦争の余波でソマリアの反エチオピア感情は根強く、ソマリア各地で反エチオピア暴動が勃発。2008年8月19日、エチオピア軍は2009年初頭のソマリアからの撤退に同意した。
日本国との関係詳細は「エチオピアと日本の関係」を参照
中華人民共和国との関係詳細は「中華人民共和国とエチオピアの関係」を参照
1970年に当時のエチオピア帝国と中華人民共和国は国交を樹立し、1971年に訪中した皇帝ハイレ・セラシエ1世は林彪事件後の毛沢東と初めて会談した外国指導者だった[43][44]。エチオピア帝国はエリトリア解放戦線への援助を取り下げた中国から巨額の融資を受けた。1974年の軍事クーデターで皇帝を打倒したメンギスツは中ソ対立を起こしていたソ連に接近して隣国ソマリアのバーレ政権への中国の支援を批判したが、国交は続けて一定の経済協力は維持した[45]。メンギスツを打倒した1991年のメレス・ゼナウィ政権からは本格的に関係回復し[46]、アフリカ連合(AU)本部は中国の費用全額負担で寄贈され、エチオピア初の環状道路と高速道路[47]などエチオピアの道路の7割を中国は建設したとされ[45]、さらに初の風力・水力発電所[48]や初の工業団地[49]、初の人工衛星の打ち上げ[50]、アディスアベバ・ライトレール、グランド・エチオピア・ルネサンス・ダム[51]、アディスアベバ・ナショナル・スタジアム(英語版)、ジブチ・エチオピア鉄道とボレ国際空港の近代化、伝音科技の携帯電話工場[52]、全土の通信網の整備[53]など中国からの様々な援助を受け入れ[54]、このことからエチオピアは「アフリカの中国」[55]と呼ばれることもある。また、エチオピアの大統領を務めたムラトゥ・テショメは中国に留学した経歴を持っていた[56]。
エチオピアは、中国側からインフラ投資を通じて一帯一路のモデル国家として称賛を受けている国であるが、2018年時点の国の債務額は国内総生産(GDP)の59%にも及んでおり、その大半は中国からの融資とみられている。政府は、より多くの中国企業の国内進出と対中国の債務の軽減を模索している[57]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 375百万米ドル(2012年) エチオピア陸軍は、1990年代には25万人となっていたが、軍事費圧縮と軍隊の近代化のため削減され、現在は約10万人である。 エチオピア空軍 エチオピア海軍
国家安全保障
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詳細は「エチオピア国防軍」および「エチオピア軍事史」を参照
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地理エチオピアの地図地形図
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出典検索?: "エチオピア" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年12月)
詳細は「エチオピアの地理」を参照
エチオピアは世界で27番目に面積が大きい国である。国土の大部分がエチオピア高原を中心とする標高2000m~4000mの高地で、年平均気温は13℃と冷涼である。北部をエリトリアとジブチ(とソマリランド)により海で隔てられた内陸国だが、それぞれ紅海とアデン湾からはわずか70キロメートルしか離れていない。国土の中央にある首都アディスアベバの標高は2,400メートル。北部は水系が多い。ソマリアとの国境を接する東部のオガデン地方はエチオピア高原からソマリアの砂漠へ下る地形である。