エチオピア
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1960年には皇帝側近によるクーデター未遂が勃発した[18]
帝政廃止

1962年にはエリトリアをエリトリア州として併合した。こうした中、1973年に東部のオガデン地方でソマリ人が起こした反政府闘争、および旱魃による10万人の餓死者という惨状、オイルショックによる物価高騰が引き金となり、アディスアベバのデモ騒乱から陸軍が反乱を起こした。最後の皇帝であるハイレ・セラシエ1世は1974年9月に軍のクーデターによって逮捕・廃位させられた。ここに紀元前より続いたエチオピアの君主制は終焉した。

軍はアマン・アンドム中将議長とするエチオピア暫定軍事政権(英語版)(PMGS)を設置して1975年12月に社会主義国家建設を宣言、ソ連の半衛星国となった。1976年に入ると年率50%に近いインフレーションエリトリア解放戦線との戦闘、労働者の賃上要求ストライキが続発するなど国内は疲弊した。同年2月と6月には、旧支配部族層によるクーデターも発生したが軍事政権に鎮圧された[19]1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムがPMAC議長に就任するが、彼が執った恐怖政治粛清により数十万人が殺害されたとされる(エチオピア内戦)。1987年の国民投票でPMACを廃止、メンギスツは大統領に就任し、エチオピア人民民主共和国を樹立、エチオピア労働者党による一党独裁制を敷いた。エリトリア、ティグレ、オガデンの各地方での反政府勢力との戦闘(エリトリア独立戦争オガデン戦争)の結果、メンギスツは1991年5月にジンバブエ亡命した。
エリトリアの独立・メレス政権

1991年、エチオピアからの独立を目指すエリトリアの勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線(EPLF) は、ティグレ人民解放戦線(TPLF)などと共に首都アディスアベバに突入、エチオピアに政変を起こし当時の指導者メンギスツ政権を倒し、同年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心とした反政府勢力連合エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)によるエチオピア新体制の確立に伴い、1993年5月24日にエリトリアの独立が承認された。また、エチオピアでもEPRDFにより暫定政権が樹立され、EPRDFのメレス・ゼナウィ書記長が暫定大統領に就任した。1995年8月には新憲法が制定され、ネガソ・ギダダ情報相が正式大統領、メレスは新憲法下で事実上の最高指導者となる首相に就任し、国名をエチオピア連邦民主共和国と改称した。
オガデンの反乱詳細は「オガデンの反乱(英語版)」を参照
エチオピア・エリトリア国境紛争詳細は「エチオピア・エリトリア国境紛争」を参照

1998年5月12日、エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展。2000年5月、エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相は6月、アフリカ統一機構 (OAU) の停戦提案を受け入れた。7月、国際連合安全保障理事会国際連合安全保障理事会決議1312号によりPKOである国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)設置を決定した。

2000年5月の総選挙で与党EPRDFが圧勝。10月10日にはメレス首相再選。2001年2月、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。10月8日、ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス人民代表議会(下院)議員が新大統領に就任した。
東アフリカ大旱魃詳細は「東アフリカ大旱魃 (2011年)」を参照
ハイレマリアム政権

2012年8月20日、メレス首相の死去を受け、ハイレマリアム・デサレンが新首相に就任した。
アビィ・アハメド政権エチオピアの勢力図(随時更新)
エチオピア政府および共闘勢力
赤: エチオピア政府
青: エリトリア国軍(英語版)
反政府勢力
緑: ティグレ人民解放戦線
黄: オモロ解放戦線
黒: グムズ解放戦線

2018年4月2日、ハイレマリアム首相の辞任を受け、後任の首相にアビィ・アハメドが就任[20]。1991年にエチオピア人民革命民主戦線が政権を握って以降、オロモ人の首相就任は初めてとなる[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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