エゼルベルト_(ケント王)
[Wikipedia|▼Menu]
この名を直接父として記しているのはケント王の系譜のみではあるが、トゥールのグレゴリウスは、それがいつの時代の事かは記しては居ないものの、エゼルベルトの父はケント王であったとのみ記している。この『エルメントリッチ』という名はアングロサクソン人の名としては珍しく、むしろフランク人貴族の名に『エルメン(Eormen)』という名が多く見受けられる事から海峡を挟んだケントとフランク王国との関連性が示唆されている[15]

現在まで知られるエゼルベルトの親族として妹リコレ(Ricole)がいる。ベーダによれば、リコレは東サクソン人の王サエベルトの母親とされている[6][16]

エゼルベルトの生誕と王位継承の時期に関しては意見の相違がある。はっきりした年月を記す最も古い資料を残したベーダは、恐らくアルビヌスとの往復書簡と思われる資料の中で書き残している。それによるとエゼルベルトは616年に没し、王位は56年に及んだと言う、すなわち彼の王位継承は560年となる。またベーダは洗礼を受けてから21年の後に没したと記している(すなわち改宗は595年)。一方カンタベリーのアウグスティヌスがケントに赴いたのは597年、ベーダによればこの伝道によりエゼルベルトはキリスト教に帰依したと言う[17] 。このようにベーダの記述には矛盾が見られる。この時代の重要な資料であるアングロサクソン年代記には、前述のベーダの残した年月と一致しておらず、また写本ごとにも相違が見られる。それぞれが異なる年代記に記された生誕時期、死亡時期、王位期間を照らし合わせてみると、王位は560年から616年、または565年から618年となるが、現存している資料がこの2つの間を行き来している[18]

アウグスティヌスの伝道の前にエゼルベルトがキリスト教に帰依していた可能性も一概に否定できるものではない。彼の妻はキリスト教徒であり、王宮での彼女にはフランク人の司教が控えており、従ってエゼルベルトがアウグスティヌスの伝道以前にキリスト教がどのようなものかを知っていた可能性はある。またベーダの記したエゼルベルトの没年が間違っていた可能性も否定できない。もしエゼルベルトの没年が618年であったとしたら、逆算すると彼が洗礼を受けた年は597年となり、アウグスティヌスがケントに到着後1年もせずして王を改宗させたとする伝承と合致する事となる[18]

トゥールのグレゴリウスは著書『フランク人の歴史』にてフランク王カリベルトの娘ベルザ(Bertha)はケントの王の息子へと嫁いだと書いており、ベーダはエゼルベルトがベルザを「両親から」受け取ったと記している。エゼルベルトの王位期間から、彼がベルザを娶った時期は560年ないし565年と推測されており、ベーダの言が言葉どおりに訳すれば、ベルダの父親カリベルトの没年である567年以前にはまず結婚していたものとされている[17][18]

しかし一方でエゼルベルトのあまりに長い王位期間も歴史家たちより疑いの目で見られている。彼の在位期間とされる56年というのは実は彼が56歳で死去したのではないかという意見がある。もしそうなら、彼の生年は560年付近となり、彼が570年代半ばで結婚する事はありえる事となる。

またトゥールのグレゴリウスによれば、フランク王カリベルトとベルザの母親であるインゴベルグとの結婚は561年よりも前でないと記している。従って、ここではエゼルベルトとベルザの婚儀は580年頃より前である事はありえそうにない。またグレゴリウスの記した年月は別の件での整合性の問題を解決している。エゼルベルトの娘であるエゼルブルホは、恐らくベルザとの子供であったと思われているが、ベーダの記したエゼルベルトとベルザの結婚の記述から年代を合わせてみるとエゼルブルホが生まれた年にベルザは齢六十となってしまう[18]

しかしながらトゥールのグレゴリウスはベルザの母親のインゴベルグは589年の時点では70歳であったであろうと書いている。従ってこれが事実であれば彼女がカリベルトに嫁いだ歳は齢40となる。この推測は不可能ではないが、同じくグレゴリウスによれば殊に夫カリベルトは若い女を好んだ模様であった事から、実際にありえる事とは思えない。この事より娘のベルザ自身が早く生まれたのではないかと指摘されている。一方でグレゴリウスはエゼルベルトがベルサと結婚した時点で彼を単に『ケントの人』と記し、589年の項目としてインゴベルグの死を伝える記述を590年ないし591年頃に書いているが、ここでは彼を『ケント王の息子』と記している。この記述がグレゴリウス自身がケントに関して無関心であった現れではなければ(無論フランク王国とケント王国がそのような疎遠な仲とも思えないが)、エゼルベルトの王位は589年以前に始まる事はありえない事になる[18][19]

上記の矛盾点は全て解決できるものではないが、最も考えられうる年代としてエゼルベルトの生年は560年頃、そしてベルザとの婚儀は580年頃であっただろうと考えられている。彼の統治は恐らく589年ないし590年付近で始まったのであろうと考えられている[18]
ケントの王権

後世のケントの歴史において王国が共同統治されていた証拠があり、通常代表する国王がいたものの、ケント王国は東西に分かれていた。早期の時点でもそうであったかの根拠は乏しいが、早期の勅令で現在では捏造されたものとされているが、そこにはエゼルベルトが息子エアドバルドとともに王国を共同統治をしていた節が見える。エゼルベルトが東ケントの、エアドバルドが西ケントの統治をしていた可能性がある。また東ケント王は伝統的にケント王国全体の統治を担う人物がなっていた。いずれにせよ、エゼルベルトがケント王国の統治を担っていた事には変わりがない[20]

このような国の分割統治は6世紀から始まったものらしい。もともと東ケントが西ケントを征服して以来、東西の別々の制度が温存され、東ケントの宗主に対する下位王国としての西ケントという図式が成り立っていたらしい。これはアングロサクソン諸国の特徴として見られる傾向であり、力の大きな王国が小さな近隣諸国をこのように支配下にしていた。ケント王国の珍しい特徴として、王の息子のみが王位を主張できたらしい。もっとも、この事が王位継承の際の政治闘争を排除できたわけではなかった[20]

東西両ケントの首都は西ケントはロチェスター(Rochester)、東ケントはカンタベリーであった。ベーダはエゼルベルトの王宮がカンタベリーにあったとは書いていないが、カンタベリーをエゼルベルトの『メトロポリス』と記している事から、彼の玉座がここにあった事は間違いがない[20][21]
脚注^ F・W・メイトランド『イングランド憲法史』創文社、1981年、3頁。 
^ Hunter Blair著、『An Introduction』、13-16頁
^ Campbell他著、『The Anglo-Saxons』、23頁.
^ Hunter Blair著『Roman Britain』の204頁によれば、550年から575年の事とされている。
^ a b Yorke著、『Kings and Kingdoms』、26頁
^ a b Swanton訳、『アングロサクソン年代記』、12-13頁
^ この伝承のどこまでを史実として受け入れるかにおいては学者ごとに意見が相違している。
^ Campbell他著『The Anglo-Saxons』、38頁
^ Fletcher著、『Who's Who』、15-17頁
^ Campbell他著、『The Anglo-Saxons』、44頁
^ Hunter Blair著、『An Introduction』、201-203頁
^ a b Yorke著、『Kings and Kingdoms』、25頁
^ Kirby著、『Earliest English Kings』、30頁
^ ベーダ、『イングランド教会史(Sherley-Price訳本)』第2巻第5章、112頁
^ Yorke著、『Kings and Kingdoms』、28頁
^ ベーダ、『イングランド教会史(Sherley-Price訳本)』第2巻第3章、108頁


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef