エゼルバルド_(マーシア王)
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したがって、エゼルバルドはエゼルヘルドおよび739年に王位を継承したクスレッドの即位を手助けした可能性がある[21]。720年代はじめにサセックス(南サクソン)がウェセックスから離脱したことを示す資料もあり、これは同地域でエゼルバルドの影響力が高まったためとする説もあるが、ウェセックスの力が弱まったのはマーシアではなくケントの影響とする説もある[22]

ケント王国では、エゼルバルドがケントの教会の擁護者であったことがケントで発行された勅許状に示されている[23]。エゼルバルドがケントの土地所有を承認したという勅許状は見つかっておらず、エゼルベルト2世(Athelbert II of Kent)やエアドベルト (Eadbert I of Kent)らケント王がエゼルバルドの同意を得ることなく土地の承認を行っていた[24]。これは単にエゼルバルドが上王であることを示す勅許状が残っていないだけであろうが、一方でエゼルバルドがケントに及ぼした影響を直接示す証拠は何もない。

エセックスでの出来事に関する情報は比較的少ないが、この頃からロンドンはエセックスではなくマーシアに帰属するようになったとみられる。エゼルバルドの前の3人の王、エゼルレッド、コエンレッド、ケオルレッドはそれぞれ東サクソンの勅許状でトゥイッケナム所領をロンドン司教ワルドヘレ (Waldhere)に認めている。ケントの勅許状では、エゼルバルドがロンドンの支配権を握り、これ以降マーシアに帰属したものとみられ、オファの初期の勅許状でもハーロウ所領に関するものがあるがエセックス王の名は証人欄にすら見られない[7][23]。南サクソン(サセックス)に関してはほとんど勅許状が残っていないが、ケントと同様土地の承認にエゼルバルドの同意を必要としていなかったことが分かっている[24]。ただし資料がほとんどないとしても、同時代の年代記者ベーダが南部イングランドの司教を列挙した上で「これらの国全部およびハンバー川流域までのそのほかの南部諸国は、各自の王と一緒にマーシア王エゼルバルドに服属した」と述べた事実は変わらない[25][16]

エゼルバルドが王権維持のため戦争をしたことを示す資料がある。733年エゼルバルドはウェセックスへの遠征を行いサマトン (Somerton) の荘園を手にいれた。『アングロサクソン年代記』にも740年にクスレッドエゼルヘルドから王位を継承し「大胆にもマーシア王エゼルバルドに戦いを挑んだ」との記述がある[26]。3年後クスレッドはエゼルバルドと共にウェールズと戦ったとされる。これはマーシアがクスレッドに賦課した軍役とみられ、7世紀の強大なマーシア王ペンダとウルフヘレも下位の王に同様のことをした[21]。752年エゼルバルドとクスレッドは再び敵対し、ある写本によればクスレッドはバーフォードで「彼(エゼルバルド)を敗走させたという[27]。エゼルバルドは存命中のうちに西サクソンへの権威を復活させたとみられ、後代のウェセックス王キュネウルフの名が即位間もない757年のエゼルバルド勅許状の証人欄に見ることができる[28]

740年にはピクト人とノーサンブリアとの間で戦争があった。エゼルバルドはピクト人の王オェングス (Oengus I of the Picts) と同盟を組んだ模様で[23]、王エアドベルト (Eadberht of Northumbria) 不在の隙をついてノーサンブリア国土を荒らし、おそらくはヨークを焼き払った[29]
称号と「ブレトワルダ」736年、エゼルバルドがキュネベルトへ出した「イスメレ勅許状 (Ismere Diploma) 」

ベーダは著書『英国民教会史』で、5世紀後半から7世紀後半にかけてハンバー川にいたるイングランド南部を統治した7人の王を列挙した[30]。その後、この時代のもうひとつ重要な資料である『アングロサクソン年代記』はこれら7人の王を「ブレトワルダ(bretwakdas または brytenwaldas.「ブリテンの支配者」「広域の支配者」の意)」と呼び[注 4]、9世紀のウェセックス王エグバートを8番目のブレトワルダに加えた。結果挙げられた8人のブレトワルダの中には、強大であったマーシア王たちが含まれていない。これは年代記の著者が単純にベーダが挙げた7人にエグバートを加えただけで、イングランドで同等の力をもった王が他にいなかったということを主張した訳ではないともみられるが、年代記の作者はほぼ間違いなく西サクソン人であり、エゼルバルドもオファもウェセックスの王ではなかったため年代記作者は祖国への思い(プライド)からこの二人への言及を避けた可能性もある[32][33]。「ブレトワルダ」という言葉の意味、そして8人の王が振るった権力の性質については学問的考察が数多くなされてきた。そのひとつに、ベーダが教会史を書いたのがエゼルバルド治世中であったため、列挙された7人の王たちはハンバー川以南の支配においてエゼルバルド王権の原型とみなしうる王たちとする解釈もある[34]

エゼルバルドの権勢、少なくともその称号を示す資料として重要なものに、736年発行の「イスメレ勅許状 (Ismere Diploma) 」(当時の写本、あるいは原本が現存する)がある。この文書でエゼルバルドは「マーシアのみならずイングランド南部と称されるすべての地域の王」とされ、証人欄には更にRex Britanniae(ブリタニアの王)との記述もある[35][36]。ただしこのRex Britanniaeは、Bretwald (ブレトワルダ)のラテン語表現だとする歴史家もおり[7]、当時こうした称号は、730年代の別の文書で同じような称号が使われているウスター以外では存在が認められていない[37]
教会との関係

745から746年にかけて、ゲルマニアで布教を行ったアングロサクソン人宣教師聖ボニファティウスが、他7人の司教と共同でエゼルバルドに宛てて「教会収益金の窃取」「教会特権の侵害」「聖職者への強制労働負荷」「修道女との姦通」といった罪を厳しく問う手紙を送った[36]。手紙ではエゼルバルドに妻を娶って色欲の罪を絶つよう説いて次のように述べた。

ですから、愛する息子よ、神の子キリストとその降臨と神の王国とによって、あなたの恩寵をお願いします。もしあなたがこの悪習を続けているのが事実ならば、人生を悔い改め、身を清め、あなたの中に創造された神の姿を色欲によって悪徳な悪魔に似た姿に変えることがいかに卑劣なことであるかを心に留めておいてください。あなたが多くの人の上に王そして支配者と成り得たのは、自分の行いによってではなく、溢れんばかりの神の恵みによるものであることをお忘れなきように。あなたは自分の欲望で自分を悪霊の奴隷にしているのです。[38]

ボニファティウスはまず手紙をヨーク大司教エグベルト (Ecgbert, Archbishop of York) へ送って王の不適切な行いを改めさせ何であれ善行を奨励するよう頼み、次いでエゼルバルドがかつて耳を傾けた修道士ヘレフリス(Herefrith)に、手紙を読んで王に直接内容を説明することを求めた[39]。ボニファティウスは手紙でエゼルバルドの信仰心や施し物を与える行為を褒め称えることも忘れなかったが、その批判はエゼルバルドのその後の考え方に影響を与えた[36]。グロスター修道院からの9世紀の寄付一覧に、エゼルバルドがマーシアの大修道院長の血縁者を「刺したか殴ったか」して殺したとする話があったこともまたエゼルバルドの否定的評価につながった[40]。エゼルバルドは、おそらくタットウィニ(Tatwine)、ノートヘルム(Nothelm)、カスバート(Cuthbert、元ヘレフォード司教か)と続くカンタベリー大司教の任命に影響力を及ぼした[24]。ボニファティウスの強い批判があったにもかかわらず教会人事に積極的に関わろうとした。後にボニファティウスがカスバートに宛てた手紙には、フランク王国での教会会議、特に747年に開かれた会議に関する情報が大量に含まれており、ボニファティウスは教令(decree)も手紙に添付して送っていた。ボニファティウスは明示的に教会会議を開くことをカスバートに提案したわけではないが、ボニファティウスの意図は明らかであった[41]


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