エゼルウルフ
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エゼルウルフ
Athelwulf
ウェセックス王

在位839年 - 858年

死去858年1月13日

配偶者オズブルガ
 ジュディス・オブ・フランス
子女エゼルスタン
エゼルバルド
エゼルベルト
エゼルレッド
アルフレッド
エゼルスウィス
家名ウェセックス家
父親エグバート
母親レドブルガ
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エゼルウルフ(Athelwulf[1]、? - 858年1月13日)はウェセックス王(在位:839年 - 858年)。ウェセックス王エグバートと妃レドブルガの子。アルフレッド大王の父。
歴史的背景9世紀始めごろのブリテン島。ウェセックスは南端の淡い黄色の部分、柿色が北に隣接するマーシア

ローマ帝国が撤退したのちの中世初期イングランドでは、もともとブリテン島に住んでいたケルト人と、ユトランド半島などから海を越えて来たアングル人サクソン人ジュート人がそれぞれ小王国を形成していた。小さな王国を含めれば100を超えるが、伝統的に七王国時代とよばれている。これらの王国は相争ってしのぎを削っていた。ウェセックスはサクソン人の築いた王国のひとつで、マーシアに従属していた時代もあったが早々に独立し、9世紀なかば以降、急速に力をつけてきていた。しかしその時代はまた、ヴァイキングがイングランドにたびたび襲来した時代でもあった。
治績

エゼルウルフはその治世の間に、カロリング朝式の政策を進め、硬軟両方の手段を用いてウェセックスの勢力範囲を拡げた。エゼルウルフのなしたことでしばしば言及されるのは、従属国を直接統治に切り替えたこと(中央集権化)、土地政策の転換、851年の対ヴァイキング海戦勝利、そして巡礼と聖別で王の威信を高めたことである。以下、分野別に解説を進める。858年に死を迎えたが、息子らの相続争いに巻き込まれ、不遇な晩年を過ごした。
本国・従属国統治

従属国をもつ王国は、王が本国を統治し、息子や腹心を下王に任じて従属国を統治させた。王といえども従属国内にひとたび入ると、下王の命令に従わなければならなかった。たとえばエゼルウルフがケント下王だったとき、エグバートはケントにいる時は息子エゼルウルフの命を仰いだ。ウェセックス王に即位したエゼルウルフは、この方式を改めて集権化につとめた。従属国の貴族に直接金品を下賜したり、本国・従属国全体で使われる硬貨はエゼルウルフの肖像を刻印したのは、王はあくまでウェセックスのエゼルウルフであると印象づけるためだった。下王はそれまで、自分の名で令状を出したり、従属国内では自分の貨幣を流通させていた[2]が、エゼルウルフ時代にはこれがみられなくなっていた。

土地政策でもエゼルウルフ時代には、その所有形態に変化がみられた。従来の土地所有は土地税がかかるうえに、複数の子に分けるときなどに分割できない制度になっていた(慣習保有地)。新しく出て来ていた勅許保有地[3]は、王がひとたび勅許を出せば、その後売買・譲渡などが自由にできたうえ、税もかからなかった。エゼルウルフは勅許保有地への転換をいっきょに進めた。当時の貴族は競って教会に金品を寄進していたので、この転換で収入の増えた貴族に支持されただけでなく、教会からも信頼された。このことがきっかけで、敵味方がはっきりしない国境付近の有力者たちもエゼルウルフのウェセックスになびいた。歴史的には勅許保有地化政策は、イングランドが封建化する転換点ともなった。
ヴァイキングとの戦いヴァイキング船を再現したもの。9世紀なかばには、30隻程度の船団を組んで襲来した

エゼルウルフが軍議と合意を重んじる戦術を好んだのは、息子アルフレッドのトップダウン式軍隊指揮とは対照をなした。アングロサクソン年代記840年代初頭からヴァイキングの襲来が次第に増えていたことを記録している。ヴァイキングの襲来、略奪、撤収という当初の行動パターンが、850年にはイングランドで冬を越すようになっていた[4]。ウェセックスはたびたびヴァイキングと干戈を交え、843年には敗北を喫するが、851年、「エゼルウルフ、エゼルバルドおよび彼らの軍隊がアクレアでデーン軍(ヴァイキング)と戦い、完全勝利をおさめ、敵の根城を完膚なきまでに叩き壊した[5]」。戦勝の報はシャルル2世西フランクにまで届き、エゼルウルフの名声を高めた。
巡礼と聖別

ローマは当時のイングランド人にとって聖地であり、ローマへの巡礼は王たる者の悲願であった。しかしその道は遠く、エゼルウルフの父エグバートは旅の途中で落命していた。エゼルウルフも父にならいローマへの巡礼を決意した。フランク王国に巡礼のため国内を通過する要望を願い入れ、エゼルウルフは父がなしえなかった偉業を成した[6]。当時のヨーロッパ大陸の人びとにとっては、辺境の島国の王が巡礼にやって来たことは一大ニュースとなった。教皇ベネディクト3世の伝記作家によれば、エゼルウルフのローマ到着は「たいへんな群衆で迎えられ」、「4ライブラの、輝くばかりの黄金の王冠、…金で縁取られた美しい剣、4客の銀箔の器、メダル装飾が施された純白の絹のシャツ、金糸の編み込まれた大きなヴェール」を献上し「それに劣らない贅沢な品々が下賜された」という[7]。これによってエゼルウルフと、彼の王国ウェセックスはイングランドのみならず、西ヨーロッパ全域に知れ渡った。

文明か野蛮かの差は、当時はキリスト教への信仰への度合いで決まった。それゆえにエゼルウルフは、即位や結婚でキリスト教式の方法をとった。現在もイギリスで王が戴冠するさい、カンタベリー大主教が聖油を額などに注ぐ聖別を行う。エゼルウルフは839年に王位についたとき、フランク王国の儀礼にならって導入した[8]。さらに2人目の王妃にフランクからユーディスを迎えた結婚式でも聖別を行った。このことは王妃の地位を高め、王妃の役割が礼拝・典礼において王のそれを補完するものとなった。
対外関係エゼルウルフ

南にはイギリス海峡をはさんで西フランク王国、北にはマーシアと隣接していた。エゼルウルフ治世は、この両者と友好な関係が続いていた時代である。互いに関係が良好であったのは、共通の敵がいたからに他ならない。西のブリトン人諸王国、海岸に来寇するヴァイキングがそれである。

この時期マーシアは最盛期を過ぎて斜陽の時代であった。エゼルウルフの時代にバークシャーがマーシアからウェセックスの版図に組み込まれているが、この時期マーシアと戦った記録はない。当時対ヴァイキング・対ブリトンで度々マーシアと共同出兵しており、援軍の代償など外交上の理由で支配権が移ったのではないかと指摘される[9]

フランク王国とも父の時代から親密な関係を保っていた。エゼルウルフがローマに巡礼するさいに通過を許しただけでなく、ローマからの帰途、3ヶ月にわたってシャルル2世の歓待を受けた。西フランク王国の友好国がウェセックスであることも、ブリテン島のなかではウェセックスの箔をつけた。また、人的交流も盛んであった。840年代の記録に、フェリックスなるフランク人が「エゼルウルフの出した文書には、私が責任を持つ」と語った記録があり、エゼルウルフに強い影響力を有していたことを示唆する[10]。エゼルウルフがフランク王国風の施政をしいたのも、両国の盛んな交流があってのことだった。
晩年の争いエゼルウルフの指輪。1902年ごろ出版された本の挿絵に使われたもの

エゼルウルフは5人の息子を得、うち4人が成人した。このことは、エゼルウルフの地位を誰が継ぐかを問題にした。長子相続であれ何であれ、明確な規定も慣習もない七王国時代においては、王の代替わりがおきるたびに諍いが起きていた。エゼルウルフの治世も例外でなく、855年末子アルフレッドを伴ってローマ巡礼に赴いたときに事は起こった。Asserの伝記によれば「エゼルウルフ王がローマから戻ってくるまでに、息子(次男)エゼルバルドと取り巻きたちがとんでもないことを仕組んだ。クーデターを起こし、王を国外に追い払ってしまおうというのである[11]」。留守を狙ったこのクーデターが内乱に発展し、全王国を東西に分けることで決着した。東をエゼルウルフが、クーデターを起こした息子エゼルバルドが西を、それぞれ領した[12]

その後エゼルウルフは「自分の死後、子らが不必要に争わないように[13]」相続について取り決めた。エゼルウルフは個人的な領土と政治的な領土を、それぞれ息子・娘・親類に配分した[14]
2人の妃

エゼルウルフは2度結婚している。1人目はオズブルガ(オズブルフ)で、子らはすべて1人目の妃オズブルガが産んだ子である。オズブルガはジュート人あるいはゴート人の支配階級と推定され、ワイト島を領していた。


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