モンテーニュは読者の興味をそそり、巻き込むように意図された巧妙なレトリックを用いて書いており、ある時には話題から話題へと意識の流れに沿って動くように見え、またある時には作品のより教育的な性質を強調する構造的な文体を用いてもいる。古代ギリシア、ラテン文学、イタリア文学からの引用がしばしば補強として用いられる。 モンテーニュの目的は人間、特に彼自身を、完全に率直に記述することであると『随想録』の中で述べている。モンテーニュは人間性の大きな多様性と移り変わりやすさこそがその最大の特徴であると認識していた。「私自身というものよりも大きな怪物や驚異は見たことがない。」[2]というのが典型的な引用句である。 モンテーニュは自身の貧弱な記憶力や、本当に感情的にはならずに問題を解決し争いを仲裁する能力や、後世にまで残る名声を欲しがる人間への嫌悪感や、死に備え世俗から離れようとする試みのことなどを書いている。 当時のカトリックとプロテスタントの間の暴力的で(モンテーニュの意見によれば)野蛮な紛争をモンテーニュは嫌悪しており、その書き物にはルネサンスらしからぬ悲観主義と懐疑主義が覗いている。 総じて、モンテーニュはユマニスムの強力な支持者であった。モンテーニュは神を信じ、カトリック教会を受け入れていたが、神の摂理がどのような意味で個々の歴史上の出来事に影響していたかを述べることは拒否していた。 新世界の征服に反対しており、それが原住民にもたらした苦しみを嘆いていた。ミシェル・ド・モンテーニュ マルタン・ゲール事件を例に引きながら、モンテーニュは人間が確実さを獲得できないと考えている。その懐疑主義は、セクストスなどから影響を受け、『レイモン・ズボン
内容
モンテーニュは結婚を子供を育てるためには必要だと考えていたが、恋愛による激しい感情は自由にとって有害なものとして嫌った。「結婚は鳥籠のようなものである。その外にいる鳥は必死になって入ろうとするが、中にいる鳥は必死になって出ようとする。」という言葉がある。
教育に関しては、抽象的な知識を無批判で受け入れさせることよりも具体的な例や経験の方を好んでいた。「子供の教育について」[4]というエセーはディアヌ・ド・フォワ(フランス語版)に捧げられている。
画像外部リンク
⇒『随想録』を手にしたミッテラン
モンテーニュのエセーに明白に現れている思考の現代性は、今日でも人気を保っており、啓蒙時代までのフランス哲学で最も傑出した作品となっている。フランスの教育と文化に及ぼす影響は依然として大きい。フランスの元大統領フランソワ・ミッテランの公式な肖像写真では『随想録』を手に持って開いている。
テクストの変遷モンテーニュによる『随想録』への書き込み
モンテーニュは1572年からエセーの執筆を始め、1580年の初版刊行後も生涯を通じて編集し続けた。1語だけ挿入することもあれば、複数の節をまるごと挿入することもあった。後世の多くの版ではこれを以下の記号で表している。
A: 1571-1580に書かれた節。1580年刊
B: 1580-1588に書かれた節。1588年刊
C: 1588-1592に書かれた節。1595年刊(死後の刊行)[5][6]
版の間の差異や追加分を分析することで、モンテーニュの思考が時間と共にどう変遷していったかが分かる。現在の考えと矛盾している時でさえも、モンテーニュは以前の記述を取り除くことはなかったようである。
書誌
原二郎訳[7] 『エセー』 岩波文庫(全6冊)。ワイド版も刊
関根秀雄訳 『モンテーニュ全集 第1-7巻 随想録』白水社、1982-1983年[8]
『モンテーニュ 随想録』 国書刊行会、2014年。訳者が没する直前まで推敲した決定版
荒木昭太郎編訳 『エセー』 中公クラシックス(全3冊)、2002-2003年
宮下志朗訳 『エセー』 白水社(全7冊)、2005-2016年
編訳版『モンテーニュ エセー 抄』 みすず書房、新装版2017年
脚注・出典^ “UNESCO Memory of the World Register”. UNESCO. 2023年5月27日閲覧。
^ 第3巻11章。ウィキソース原文
^ 第2巻12章。ウィキソース原文