エストニア
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地形は平坦で国土の最高標高は318m[注釈 3]国連の分類では北ヨーロッパの国である[注釈 4]

首都タリン中世ハンザ都市として栄えた港湾都市であり、その旧市街は世界遺産「タリン歴史地区」に指定されている。またタリンは、フィンランドの首都ヘルシンキ、ロシアのサンクトペテルブルクとともに、フィンランド湾に面する主要都市の一つである。特に85q北に位置する対岸のヘルシンキとの往来が活発である[6][注釈 5]

報道の自由度ランキングの上位国であり[注釈 6]公用語エストニア語。複数の言語を話せる国民が多い[4][7]。国民の半数以上が無宗教とされる。一方で、ロシア系住民にはロシア正教を信仰する者もいる[8]。また、Skype(スカイプ)を産んだ国であり、外国のIT企業の進出も多く、ソフトウェア開発が盛んである[9]。早期のIT教育[10]国際学力調査欧州の上位国としても知られる[注釈 7]

13世紀以降、デンマークドイツ騎士団スウェーデンモスクワ大公国ロシア帝国などの支配を経て、第一次世界大戦末期の1918年にロシア帝国より独立。第二次世界大戦中の1940年ソビエト連邦により占領され(バルト諸国占領)、翌1941年独ソ戦ナチス・ドイツが占領。1944年、ドイツ軍を押し返したソ連により再占領・併合されエストニア・ソビエト社会主義共和国となった。その後、ソビエト連邦の崩壊により、1991年独立を回復2004年EUNATOに加盟、2008年NATOサイバーテロ防衛機関の本部所在国となる[12]経済協力開発機構(OECD)にも加盟している。

なお、エストニア政府では建国年を1918年としており、1991年にソ連の占領から独立を「回復」したと見做しているため、自国は「旧ソ連構成国」ではないとしている[13][14]
電子政府・電子国家

エストニアはITを行政に活用する「電子政府」を構築しており、婚姻届と離婚届など倫理的な要因であえて除外されているものを除くほぼ全ての行政手続きがオンライン申請に対応している[15]。エストニアの省庁や企業、個人は「X-Road」という基盤情報システム個人情報を登録・利用している。個人情報の所有権は各個人にあると定めており、自分の情報へのアクセス履歴を閲覧できる[16]

国外の外国人にもインターネット経由で行政サービスを提供する「電子居住権」(E-Residency) 制度に5万人以上が登録している[17]。この制度は投資を呼び込むとともに、エストニアに好意的な人を世界で増やし、ロシアに対する抑止力を高める狙いもある[18]。戦争や災害に備えて、国民のデータを保管しておく「データ大使館」を2018年ルクセンブルクに設置した[19]
国名

正式名称はエストニア語で、Eesti Vabariik([?e?sti ???b?ri?k]、エースティ・ヴァバリーク)。略称は、Eesti([?e?s?ti] ( 音声ファイル))。

日本語表記は、エストニア共和国。通称エストニア。
歴史ロシア帝国領エストラントリーフラントエストニア南西部のパルヌでの独立宣言(1918年2月23日)1925年のエストニア地図詳細は「エストニアの歴史」および「古代エストニア(英語版)」を参照

現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族(ウラル語族)と、外から来た東スラヴ人ノース人などとの混血の過程を経て、10世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった。13世紀以降、デンマークドイツ騎士団がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、タリンハンザ同盟に加盟し海上交易で栄えた。ただしその後もスウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた。

1917年ロシア革命ロシア帝国が崩壊すると自治獲得の動きが高まり、まもなく独立運動へと転じた。1918年2月24日エストニア共和国の独立を宣言。その後はソビエト・ロシアドイツ帝国の軍事介入を撃退して独立を確定させた。1920年タルトゥ条約でソビエト・ロシアから独立を承認され、1921年には国際連盟にも参加した。「エストニア独立戦争(英語版)」も参照

1939年9月1日未明、ナチス・ドイツが、次いで同年9月17日にソ連がポーランドへ侵攻を行う中、エストニアは同年9月28日にソ連との間で相互援助条約、通商条約を締結した。相互援助条約では、国境や基地に直接的侵略が加えられたときなどは相互に軍事的援助を行うこと、ソ連がバルト海サーレマー島ヒーウマー島租借して海軍基地、航空基地を建設することなどが取り決められた[20]。しかし、1940年6月16日、ソ連は相互援助条約の履行を確保するという名目でソ連軍の進駐を強要[21]。事実上、ソ連に占領されることとなったが、独ソ戦が進行する中で1941年から1944年まではナチス・ドイツに占領された。1940年のソ連、翌1941年のドイツ占領に伴い三万人を超えるエストニア人がスウェーデンに亡命したとされる[22]第二次世界大戦末期の1944年にはソ連に再占領され、併合された。

ソビエト連邦の崩壊直前の1991年独立回復を宣言し、同年に国際連合へ加盟した。この時自動的に国籍が与えられたのは、ソ連に併合された1940年以前にエストニア市民だった者とその子孫とそのいずれかの家族。このほか1992年3月末までに2年以上エストニアに在住しエストニア語を話し、以前持っていた他国の国籍を放棄する者。


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