エストニア
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歴史ロシア帝国領エストラントリーフラントエストニア南西部のパルヌでの独立宣言(1918年2月23日)1925年のエストニア地図詳細は「エストニアの歴史」および「古代エストニア(英語版)」を参照

現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族(ウラル語族)と、外から来た東スラヴ人ノース人などとの混血の過程を経て、10世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった。13世紀以降、デンマークドイツ騎士団がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、タリンハンザ同盟に加盟し海上交易で栄えた。ただしその後もスウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた。

1917年ロシア革命ロシア帝国が崩壊すると自治獲得の動きが高まり、まもなく独立運動へと転じた。1918年2月24日エストニア共和国の独立を宣言。その後はソビエト・ロシアドイツ帝国の軍事介入を撃退して独立を確定させた。1920年タルトゥ条約でソビエト・ロシアから独立を承認され、1921年には国際連盟にも参加した。「エストニア独立戦争(英語版)」も参照

1939年9月1日未明、ナチス・ドイツが、次いで同年9月17日にソ連がポーランドへ侵攻を行う中、エストニアは同年9月28日にソ連との間で相互援助条約、通商条約を締結した。相互援助条約では、国境や基地に直接的侵略が加えられたときなどは相互に軍事的援助を行うこと、ソ連がバルト海サーレマー島ヒーウマー島租借して海軍基地、航空基地を建設することなどが取り決められた[20]。しかし、1940年6月16日、ソ連は相互援助条約の履行を確保するという名目でソ連軍の進駐を強要[21]。事実上、ソ連に占領されることとなったが、独ソ戦が進行する中で1941年から1944年まではナチス・ドイツに占領された。1940年のソ連、翌1941年のドイツ占領に伴い三万人を超えるエストニア人がスウェーデンに亡命したとされる[22]第二次世界大戦末期の1944年にはソ連に再占領され、併合された。

ソビエト連邦の崩壊直前の1991年独立回復を宣言し、同年に国際連合へ加盟した。この時自動的に国籍が与えられたのは、ソ連に併合された1940年以前にエストニア市民だった者とその子孫とそのいずれかの家族。このほか1992年3月末までに2年以上エストニアに在住しエストニア語を話し、以前持っていた他国の国籍を放棄する者。また外国の軍隊に所属していない、旧ソ連の情報機関に所属したことがないなどが条件となった[23]

退役軍人の扱いなどを巡り、他のバルト諸国と比べロシア軍の撤退が遅れていたが、1994年8月31日ロシア軍が完全撤退した。首都タリンでは記念式典が開かれたが、両首脳が出席したドイツとは違い、ロシア側からの出席は一切なく、両国の冷えた関係が際立った[24]。独立後は西欧諸国との経済的、政治的な結びつきを強固にしていった。2004年3月29日北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。さらに、同年5月1日には欧州連合 (EU) に加盟している。ロシア連邦との間に国境問題が存在する(後述)。

2007年4月27日、タリン解放者の記念碑(英語版)撤去事件を機に「青銅の夜」と呼ばれるロシア系住民による暴動がタリンで起こり、ロシアとの関係が悪化した。同時にロシアから、世界初の大規模なサイバー攻撃(DDoS攻撃)が行われ[25]、国全体で通常時の数百倍のトラフィックが発生し、エストニアのネット機能が麻痺した。

これを機に2008年NATOサイバーテロ防衛機関であるNATOサイバー防衛協力センターが首都のタリンに創設された[12]。エストニアの電子政府は、改竄などがされにくいブロックチェーン技術を採用している。さらに、将来の大規模サイバー攻撃や国土への武力侵攻に備えて、2018年、国民の情報のバックアップ・データを保管する「データ大使館」をNATO加盟国であるルクセンブルクに設置した[26]エストニア独立宣言書(1918年)詳細は「エストニアへのサイバー攻撃」を参照

ソ連とナチス・ドイツによる占領と抑圧を受けた経緯から、それぞれの象徴であった「鎌と槌」および「鉤十字」の使用と掲揚は、2007年施行の法律で禁止されている。

2014年2月18日エストニアとロシアの領有権問題について両国外相は、ソ連時代の国境線を追認する(すなわち、エストニア側が領有権主張を放棄する)形での国境画定条約に署名した[27]。これに従ってエストニア議会は国境条約批准プロセスを進めたが、その後はロシア側がエストニアの「反露感情」について抗議を繰り返し[27]2019年に至っても批准プロセスは停滞したままとなっている[28]
政治トームペア城の国会議事堂詳細は「エストニアの政治(英語版)」を参照

政体は共和制。議会(リーギコグ、Riigikogu)は一院制で、任期は4年である。大統領は議会によって選ばれ、任期は5年である。2007年2月26日から28日に世界で初めて議会選挙に関してインターネットを利用した電子投票を行った[29]

電子化が進んでおり、議会への出席時にノートパソコンなどの電子端末持ち込みが自由であり、かつ、インターネットでの議会出席も許可されているため、議論への参加や投票のとき以外は、議員が議会へ直接実際に出向く必要もない。政府が発行する個人IDカードは15歳以上のエストニア国民のほとんどが持っており、行政サービスのほとんどが個人端末から済ませることが可能である。また、このIDカードは運転免許証や、ショッピングの際のポイントカードとしても機能している。役所などでは人員や紙などのコストを4分の1、窓口の人員は10分の1ほどに減らすことが可能になった[30]
国際関係エストニアが外交使節を派遣している諸国の一覧図2011年8月ヘルシンキで、フィンランド、スウェーデンノルウェーデンマークアイスランド、エストニア、ラトビア、リトアニアの8カ国外相会談開催。会談後、バルト三国独立20周年を祝うセミナーが開催された。詳細は「エストニアの国際関係(英語版)」を参照

ロシア帝国とソ連の支配に苦しんだ歴史から、ロシアを警戒し、欧米と協調する政策をとっている。2022年ロシアのウクライナ侵攻では、エストニア議会ラトビア議会とともに、ロシアによる戦争犯罪を非難した[31]

一方で国民の4人に1人がロシア系であり、国境の町ナルバなどでは8割を超す。こうした町ではエストニアでありながらロシア語が使われ、意思疎通が出来ない場合がある。ロシアメディアから情報を仕入れる住民はロシアへの愛着も強く、ソ連時代の戦車や記念碑を撤去する度に、ロシア系住民の抗議活動とロシアからのサイバー攻撃に悩まされている[32]

エストニアはフランスと同じく、欧州連合(EU)加盟国中で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と国交を結んでいない国である。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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日本との関係詳細は「日本とエストニアの関係」を参照

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国家安全保障NATOのオープニングセレモニーでのエストニア陸軍(2013年)詳細は「エストニア国防軍」を参照

陸海空の三軍のほか、郷土防衛部隊としてのエストニア防衛連盟(エストニア語: Kaitseliit)を有する。NATOに加盟して欧米諸国と同盟関係にあり、サイバー防衛のほかNATO各国空軍による領空警備を提供されている。国際貢献としてアフガニスタン国際治安支援部隊(ISAF)やイラク駐留軍にも人員を派遣した。また徴兵制度により18 - 28歳の男性は8 - 11か月の兵役を務める。

戦争になった場合には、最大4万3700人を動員できる体制を整え、志願制の国防組織「ディフェンスリーグ」には、傘下組織も合わせると約3万人が参加している。エストニアには米軍のほかにも、NATOの政策の一環として、英兵600人、フランス兵300人ほどが駐留している[33]

エストニア軍は第一次世界大戦後の独立に際して創設されたが、ナチス・ドイツによる占領時は反共義勇兵(第20SS武装擲弾兵師団)の募兵、第二次世界大戦以降はソ連への併合に伴う赤軍の駐留が行われていた。現在のエストニア軍は1991年の再独立に伴って再創設された。

独立以来、安全保障上の最大の脅威はロシアである。かつて侵略された歴史と、自由民主主義とは相容れない価値観を持つ国に対し、国民の多くが脅威を感じている。エストニアはロシアと、338キロにわたって国境を接している(川や湖を除けば135キロ)。ウクライナ侵攻後の2023年12月、エストニア政府は国境沿いに、新たに長さ40キロのフェンスを完成させた。それまでの分と合わせ、陸地の国境の半分にあたる63キロに物理的な「壁」が設けられたことになった。国防費は2024年、対国内総生産(GDP)比で3・25%に到達する見通しである[33]
地理エストニアの地図[地図上] バルト海
西岸にスウェーデン、東岸に北から順にフィンランドロシア、エストニア、ラトビアリトアニア
[地図下] フィンランド湾
北岸にフィンランドの首都ヘルシンキ、南岸にエストニアの首都タリン、最東端にロシアサンクトペテルブルクフィンランド湾に面する北の海岸詳細は「エストニアの地理(英語版)」を参照

南のラトビアとの国境線は267キロメートル、東のロシアとの国境線は290キロメートルあり、フィンランド湾に面する北の海岸は主に石灰岩からなる。

国土の最高標高地点はスールムナマギ(大きな卵の丘)で標高318メートル、1812年に最初の展望台が建設された。現在、展望台は5つあり[注釈 8]、東にロシア領、南にラトビア領が望める[34](位置:左地図参照)。

首都タリンからフィンランド湾の北の対岸、フィンランドの首都ヘルシンキまでは85キロメートル、同じく湾の東奥、ロシアのサンクトペテルブルクまでは350キロメートルである[4]

エストニア最大の湖は東部のペイプシ湖で、面積は日本の琵琶湖の5.22倍、湖の中央にはロシアとの国境線がある。国土の50.5%は森林となっている。

ペイプシ湖から、タルトゥに次ぐエストニア第3の都市ナルヴァ(ロシアとの国境の街)を経て、フィンランド湾に流れ込むナルヴァ川は、エストニアとロシアの国境線となっている。

2000以上の島がある[35]
地形

サーレマー島(エーゼル) Saaremaa / Osel

ヒーウマー島(ダーグエー) Hiiumaa / Dago


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