エジプト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、アラビア語: ????????????? ?????? ????????????)、通称:エジプト(アラビア語: ??????)は、中東および北アフリカに位置する共和制国家。首都はカイロ。
アフリカ大陸では北東端に位置し、西にリビア、南にスーダン、北東のシナイ半島ではイスラエル、パレスチナ国・ガザ地区と国境を接する。北部は地中海、東部は紅海に面している。 エジプトは中東とアフリカ大陸の接点に存在し、古代文明が存在していた地域のひとつに数え上げられる。その文字記録された歴史は紀元前4千年紀にまで遡れる。 人口はアラブ諸国で最も多く、2020年2月に1億人を超えている[3]。同国地域には数千年前の古代都市の痕跡や幾多もの史跡がナイル川に沿う形で点在している。 また、水源が乏しい国の一つとしても知られており、南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分の95%以上が砂漠である[4]。ナイル河口の東には地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。 同国は現在、MENA地域において2番目に人口密度の高い国と見做されており、中でもカイロは世界で最も人口密度の高い都市のひとつに当たる。 正式名称はアラビア語で ????????????? ?????? ???????????(ラテン翻字: Jumh?r?yat Mi?r al-?Arab?yahないしはal-?Arab?ya, ジュンフーリーヤト・ミスル・アル=アラビーヤ)。通称は ??????(標準語: Mi?r ミスル、エジプト方言ほか、口語アラビア語: [m?s??] マスル)。コプト語: ????(Khemi ケーミ)。 アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形のミスライム(?????, ミツライム)となる。 公式の英語表記は Arab Republic of Egypt。通称 Egypt [?i?d??pt]。発音は「イージプト」に近い。形容詞はEgyptian [??d??p??n]。エジプトの呼称は、古代エジプト語のフート・カア・プタハ(プタハの魂の神殿)から転じてこの地を指すようになったギリシャ語の単語である、ギリシャ神話のアイギュプトスにちなむ。
概要
国号
1882年 - 1922年:(イギリス領エジプト
1922年 - 1953年:エジプト王国
1953年 - 1958年:エジプト共和国
1958年 - 1971年 アラブ連合共和国
1971年 - 現在:エジプト・アラブ共和国
歴史詳細は「エジプトの歴史」を参照
古代エジプトギザの三大ピラミッドヒエログリフ詳細は「古代エジプト」を参照
「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタに支えられ古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年ごろには早くも国家を形成し、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。 3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前663年にアッシリア帝国によって征服された。アッシリアの滅亡後一時独立を回復したものの、紀元前525年にアケメネス朝ペルシアによって再び征服され、民族国家としての独立性を失った。 紀元前332年にはアレクサンドロス大王の東征に伴いマケドニア帝国に組み込まれ、大王の死後その部将の一人であるプトレマイオス1世によってプトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化と在来文化の融合を果たした。 末代の女王クレオパトラ7世の奮闘も虚しく、プトレマイオス朝は紀元前30年にローマの将軍オクタウィアヌスによって滅ぼされ、エジプトはアイギュプトゥス属州としてローマ帝国の支配下に置かれた。紀元後に入ってはキリスト教が広まり、後にコプト正教会が生まれた。豊かな穀倉地帯であったために皇帝の直接統治領となり、ローマとその後継のビザンツ帝国時代に通して帝国行政の片鱗を担った。 639年にイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝、イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。
統一オリエント?ローマ帝国時代
イスラム化時代