エジプト第18王朝
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「古代エジプトのナポレオン」と称されたトトメス3世、世界初の一神教ともいわれるアテン神信仰を追求したアメンヘテプ4世(アクエンアテン)、黄金のマスクによって知られるトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)、女性としては初めてエジプトに実質的な支配権を確立したハトシェプスト、など、古代エジプトの代表的な王が数多くこの王朝に属している。王朝後半には王統が断絶したと考えられているが、最後の王ホルエムヘブはその混乱を克服し、宰相ラムセス1世を後継者に指名した。彼が第19王朝を開き、新王国の繁栄はなおも継承された。
歴史
エジプト統一イアフメス1世のミイラ。1881年に発見され、現在は大英博物館に保管されている。

第2中間期にテーベを中心に支配権を持っていた第17王朝は、下エジプトナイル川三角州地帯)東部を拠点とした第15王朝ヒクソス)の覇権の下にあった。やがてセケンエンラー王の時代に対ヒクソスの軍事行動を開始し、息子のカーメス、イアフメス1世と三代にわたる戦いの結果、第15王朝の根拠地アヴァリスを制圧して全エジプトを統一した。このエジプト統一という事件を重要視し、マネトはイアフメス1世以降の王を第18王朝としており、現代の学者達の区分もこれに従っている。

ヒクソスや、彼らに関係した戦いについては、ヒクソスエジプト第15王朝エジプト第17王朝を参照

イアフメス1世はヒクソス勢力にとどめを指すべく、ヒクソスのパレスチナ地域における拠点であったシャルヘンを攻略するためのパレスチナ遠征を治世第11年から開始した。3年にもわたる包囲戦の末シャルヘンを陥落させ、ここにヒクソス勢力は完全に放逐されるに至った。そしてヒクソス(第15王朝)のアペピ王の娘ヘルタを妃として迎え、これによってヒクソスがシリア地方に持っていた統治権を継承したと主張した。こうしてパレスチナ地域の支配権を確立した後、イアフメス1世は矛先をヒクソスの同盟国であったヌビアに向け、ナイル川第二瀑布付近までを征服した。以後ヌビアは、「南の異国の王子」という称号を持つ総督によってエジプトの直接支配の下に置かれることになる。こうして南北で国境を固めた後、イアフメス1世は中央集権を確立すべく内政の充実に力を注ぎ、官職の売買などを禁止して人事権の掌握に努めた。
新王国時代の形成

イアフメス1世の後、息子アメンヘテプ1世(前1551年 - 前1524年)が即位した。彼は30年近い統治年数を持つにも関らず記録をあまり残していない。しかし官職の売買に関する文書などは彼の時代に完全に姿を消すことから、父王の路線を継続して内政の充実に努めていたと考えられる。彼の時代のとりわけ重要な事業は、テーベの主神でありエジプトの国家神となるアメン神信仰の中枢アメン大神殿(カルナック神殿)の拡張計画の開始である。以降この神殿はローマ帝国時代まで継続的な修復、改修、拡張が繰り返され、今日にもその威容を残している。

アメンヘテプ1世の後に王位を継承したのはトトメス1世(前1524年 - 前1518年)であった。トトメス1世とアメンヘテプ1世の血縁関係は不明瞭であるが、恐らく義兄弟であっただろうといわれている。というのはトトメス1世がアメンヘテプ1世の妹イアフメス(英語版)を妻としているからである。トトメス1世自身は軍人の出であり、このような場合しばしば王朝の交代とされるがマネトは連続した王家と見なしている。

トトメス1世の治世は短いが、輝かしい軍事的成功と偉大な建築家の存在によって一時代を画した。トトメス1世は大規模なアジア遠征を企画した。この遠征は当時メソポタミア北部で勢力を拡大していたミタンニ王国[注釈 2]に対して行われたものであった。ミタンニは当時近隣のアッシリアヒッタイトを圧迫しながらその勢力を拡大しており、早晩エジプトの支配するシリア・パレスチナにおいても深刻な脅威となると見られた。これを排除するために行われたトトメス1世の奇襲攻撃は成功裏に終わり、ミタンニ側に組織的な抵抗を許す事なく「逆さに流れる川[注釈 3]」(ユーフラテス川)まで進軍。ユーフラテス河畔のカルケミシュ近郊に境界石を置いてエジプトの武威を示した。

トトメス1世はこの勝利をアメン神に感謝し、カルナック神殿に戦利品を寄進するとともに神殿をアメンヘテプ1世時代以上に拡張した。現在に残るカルナック神殿の基本的な部分はこのとき造られたものである。遠征の戦利品をカルナック神殿に寄進するのは以後エジプト王の慣例となる。更にエジプト歴代王の王墓が集まる土地として名高い王家の谷が形成されるのも彼か、それに前後する時代である。王家の谷の建設に深く関わったと考えられる高官イネニに関する記録が残されている。トトメス1世はヌビア地方においても成功を収め、イアフメス1世が征服した領土を更に南に押し広げた。

王家の谷については王家の谷、およびエジプト新王国を参照
ハトシェプスト女王ハトシェプスト女王像。後にトトメス3世によって打ち捨てられたものだが、保存状態は良好である。

トトメス1世が死去すると、トトメス2世(前1518年 - 前1504年)が即位した。彼はトトメス1世の息子であり、彼の二人の兄が夭折していたため王位を継承することになった。しかしトトメス2世は病弱であったうえ、彼の母ムトネフェルト(英語版)は側室であり血統的正統性は磐石とは言い難かった。このためトトメス1世と正妃イアフメスの間に生まれた子供の中で唯一生きていたハトシェプストを正妃として迎え、王位継承の正統性を強化しようと努めた。

トトメス2世は病弱とは言え有能な指導者であり、ヌビアでの反乱鎮圧などでは大きな成果を挙げていたが、宮廷内の問題、特に王位継承に関するそれは彼の思うようには運ばなかった。トトメス2世は側室イシス(英語版)との間にもうけていた王子トトメス3世に王位を継がせたいと考え、トトメス3世を後継者に指名した。

トトメス2世が死去すると、彼の遺言通りにトトメス3世(前1504年 - 前1450年)が即位した。しかし彼はまだ幼く、ハトシェプストは摂政(共同統治者)として実権を握った。共同王とは言っても、トトメス3世の存在は無視され、事実上ハトシェプスト(前1498年 - 前1483年)が全ての権力を握った。ここにエジプト史上初めて実質的な最高権力を女性が握ることになる[注釈 4]

ハトシェプスト時代は目立った対外遠征が行われておらず、大きな反乱もなく長い平和が続いた。この平和の中でエジプトの国力は拡大を続けており、数世紀ぶりにプント国(現在のソマリア地方)などアフリカ方面へ大規模な交易隊が派遣された。


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