エジプト新王国
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アイユーブ朝 1171?1250
マムルーク朝 1250?1517
近世
オスマン帝国領エジプト 1517?1867
フランス占領期 1798?1801
ムハンマド・アリー朝 1805?1882
エジプト副王領(英語版) 1867?1914
近代
イギリス統治期(英語版) 1882?1953
エジプト・スルタン国(英語版) 1914?1922
エジプト王国 1922?1953
エジプト共和国 1953?1958
アラブ連合共和国 1958?1971
エジプト・アラブ共和国 1971?現在











概略アビュドス王名表。歴代王の「公式」の一覧。

第2中間期下エジプトナイル川三角州地帯)を中心に支配を広げていたヒクソス(第15王朝)を、テーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール[1])の政権(第17王朝)が、セケンエンラーカーメス、そしてイアフメス1世の三代に渡る戦いの末に駆逐し、エジプトを再統一した。第17王朝と第18王朝は連続した政権であるが、エジプト統一という点を重視し、イアフメス1世以後は第18王朝とされる。

イアフメス1世とその後継者達は上下エジプトのみならず近隣のシリアヌビア地方へ大幅に領土を拡大し、エジプトはオリエント世界最大の国家の一つとして君臨するに至った。トトメス3世に代表される歴代王達の征服活動は目覚ましく、広大な征服地とともに膨大な戦利品がエジプトへ流れ込み、エジプトは空前の繁栄の時代を迎えた。

歴代の王達は遠征の後に、国家神であるアメンに戦勝を謝するため、テーベにあるアメン神殿に多数の寄進を行うのが慣例となっていた。やがてアメン神殿はエジプトにおいて比類無い有力勢力となり、アメン神官団の動向は時として王位すら左右するようになった。第18王朝半ば頃になるとこうした神殿勢力の強大化に懸念を抱いた王達は、人事面における介入や他の神殿とのバランスをとる政策を中心として、アメン神官団の勢力をそぎ落としにかかった。こうして比較的アメン神官団を統御することが可能となったアメンヘテプ3世の時代には、圧倒的な王権を背景に数多くの巨大建築が残された。

アメンヘテプ3世に続くアメンホテプ4世は更に進んでアメン信仰を排し、アテン神を唯一信仰するという新たな宗教改革(アマルナ革命)に乗り出した。王はアテン信仰を盛り上げるべく、王名をアクエンアテンと変更し、首都を新たにアケトアテンへと遷した。新しく筆記語として当時の口語(新エジプト語)が採用された。そしてアマルナ美術と呼ばれる新たな美術様式が生み出され、アテン神の図像表現も定まった。しかしアテン信仰は王とその側近以外にはほとんど広まらず、アクエンアテンの死後再びアメン信仰が国家祭儀の中心となった。

アクエンアテンの後は王位継承が混乱し、軍人出身の王が続いた後第18王朝最後の王ホルエムヘブから後継者に指名された宰相ラムセス1世が即位して第19王朝が始まった。第19王朝においても新王国の繁栄は受け継がれ、セティ1世、そしてラムセス2世はその威信を示す巨大建造物を多数残している。特にラムセス2世は古代エジプト最大の王とも言われ、60年を超える彼の治世はエジプトが最も繁栄した時代と解される。

その後興った第20王朝の王ラムセス3世の治世を最後に、新王国の王権は急速に衰退し始め、逆に勢力をのばしたテーベアメン神官団が事実上の国家を樹立して上エジプトに支配を広げ、エジプトの統一は再び失われた。下エジプトではスメンデスと言う名の男が新たに権力を握ってラムセス11世と並び立ち、やがて新たに第21王朝を開くことになる。
社会

新王国時代には相次ぐ対外遠征によって齎された膨大な戦利品がエジプトの社会に大きな影響を与えた。既に中王国時代のヌビアへの遠征によってエジプトに大量の金が齎されるなどしてはいたが、新王国時代になると、相次ぐ軍事的成功によって戦利品の質、量ともに中王国時代とは格段の差が生じた。この戦利品は王からの寄進という形をとって神殿へと流れ込み、エジプト各地の神殿勢力、とりわけテーベのアメン神殿はその勢力を飛躍的に拡大した。また戦争中に捕らえられた外国人は捕虜奴隷としてエジプトに連れてこられ、神殿などへ寄進された他、各種の労働に携わった。
土地・神殿領と王室領

各地の神殿はそれぞれ広大な耕作地を支配する土地所有者であった。第20王朝のラムセス4世時代に残された記録(ハリス・パピルス[2][3])によれば、この時代に神殿領はエジプトの全耕作地の3分の1、人口の5分の1を占めていた[4]。更に諸神殿の間でも著しい偏在が存在し、アメン神殿を含むテーベ神殿群が占める財産の割合は全神殿の4分の3に達し、次に規模の大きいラー神殿を含むヘリオポリス神殿群にさえ大きく水をあけていた。

ハリス・パピルスに記された財産目録によれば、テーベ神殿群は86486人の奴隷、421362頭の、864168.25アロウラ[5]の土地、83隻の船舶、エジプトの都市56、シリア・クシュの都市9などを所有していた。第2位のヘリオポリス神殿群では奴隷12364人、牛45544頭、土地160084.75アロウラ、3隻の船舶を所有しているに過ぎない。ただし、都市に限れば103の都市を所有していた。第3位のメンフィス神殿群ではヘリオポリス神殿群のほぼ4分の1(土地は16分の1)に過ぎず、その他の地方神殿群は全て合計してもヘリオポリス神殿群の半分以下である。

この記録はアメン神殿が特に勢力を増した第20王朝時代に記録されたものであるため、アメン神殿の制御に力を注いだ第18、19王朝時代にはもう少し規模が小さかった可能性もあるが、記録が完全でないので比較が難しい。

これに対し王室領も存在した。王室領は、王の船着場領、王の農場、王のカート領、王のミン領、王の国庫領、王妃領、そしてハレム領など構成された。

史料的制約のため神殿領・王室領の時期毎の変遷や、経営の実態を明らかにすることは困難である。これらの領土は更に直営領や小作営領などに分類されている。また私有地については良くわかっていないが、小作営領を耕作する小作農民の間で、小作地として割り当てられた農地の「小作権」を世襲することで事実上土地を所有した「自由農民」が存在したことが知られる。
奴隷

多くの古代文明と同じくエジプトには古くから奴隷が存在した。主な奴隷供給源は戦争捕虜と奴隷貿易による購入、及び「奴隷から生まれた子供」であった。

中王国時代から第2中間期に至る時代まで、東地中海にはかなり整備された奴隷貿易網が存在していたと考えられる。中王国時代のブルックリン・パピルスと呼ばれる文書に記された奴隷リストによれば、奴隷を構成するのは主にシリア・パレスチナ地方のアジア人奴隷とエジプト人奴隷であった。中でもアジア人奴隷が過半数を占める。また、エジプト人奴隷は主に犯罪によってその地位に落とされたと考えられ、債務奴隷は皆無である。このリストに載せられた奴隷のうち女性の占める割合が高いことから、戦争捕虜による奴隷はほとんど含まれていないと考えられている。他の史料からヌビア人奴隷や黒人[6]奴隷の存在も知られているが、例外的な部類に属しあまり数は多くない。

新王国時代に入るとその帝国的拡張の影響を受けて俄かに捕虜奴隷が増加した。新王国時代最も領土を拡張したトトメス3世の17回に及ぶ遠征では、記録の残るものだけで総計8231人以上、現代の学者による推計では15000人余りの捕虜・奴隷を得ている。続くアメンヘテプ2世は治世2年に行った遠征でシェメシュエドム、オロンテス、イカチなどの戦闘で貴族550人以上、その妻子240人以上、カナン人640人、王子232人、王女323人、首長の女歌手270人を捕虜とし、治世9年の遠征ではハビル、ベドウィンなど合計101128人を捕獲したと記録に残っている。記録を残していない王も多いが、大半の遠征で捕虜が獲得されたであろうことは想像に難くない。

こうして鹵獲された捕虜は主に、国有奴隷として国有地に集団で移住させられるか、政府高官及び勲功ある家臣に対する恩賞として与えられ、また神殿に対する寄進として各地の神殿、特にテーベのアメン神殿に送られた。

また新王国時代後半になると特筆すべき変化が起きた。第2中間期以前にはほぼ見られなかった債務奴隷(債務返済の手段として奴隷となる)が登場するのである。新王国以前のエジプト奴隷制において債務奴隷が存在しないというのは大きな特徴であり、その主たる原因が商業の未発達によるものであるという見解は広く支持されている。従ってその債務奴隷が出現したということは、新王国時代後半における商業資本の発達を意味すると考えられる。事実債務奴隷が登場する時代に初めてエジプト語に「商人[7]を意味する単語も登場するのである[8]

もっとも、新王国時代の奴隷の増加があっても人口、生産活動に占める奴隷の割合は低く、一部の特殊技能者を除けばエジプトにおける奴隷労働の役割は補助的なものに過ぎなかったと考えられている。その業務内容もいわゆる「自由民」と差があるものではなく、ほとんど全ての賦役が奴隷労働の対象となりえた。奴隷の地位、労働の苛酷さは職業や所有者の個性によって千差万別であり、「自由民」の男性と結婚して解放された女奴隷や、所有者から事実上の家族として扱われ、養子縁組を行って「自由民」となり財産の相続を受けた例さえ知られる一方、国有奴隷や神殿所有の奴隷の中で農業労働に携わった人々の生活は苛酷であったらしく、しばしば逃亡者を出している。当時農夫(イフウティ)とは奴隷、非奴隷を問わず農業労働に従事する職業の人を指す呼称であったが、「罪人を農夫とする」というような脅し文句がしばしば使われるほど苛酷な労役であった。
軍人

第2中間期のヒクソスの支配を経てシリア・パレスチナ地方との関係が深まり、またヌビア地方へも遠征が行われて広大な異国の地を支配に置くに至った新王国では、これらの維持のためにこれまでに無い規模の遠征が繰り返された。


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