フランス革命中の1794年9月28日に、数学者ラザール・カルノーとガスパール・モンジュによって創設され、1804年にナポレオン・ボナパルトによって軍学校とされた。
"ポリテクニック"の語源となった学校であり、世界中にエコール・ポリテクニークをモデルとした学校・大学が存在する。理工系エリート(テクノクラート)養成の機関であり[5]。同校からは3名のノーベル賞受賞者、1名のフィールズ賞受賞者、3名のフランス大統領、複数の企業CEOを輩出している。2015年TimesのTHE世界大学ランキングによって、フランス国内において第一位と認定された。
ParisTechの設立メンバーとしてパリ近郊の各高等工科系の学校とグループを結んでいる。
2019年に設立されたパリ工科大学(Institut Polytechnique de Paris, IP Paris)を構成する5つのグランゼコールの1校である。
歴史
1794年、フランス革命中にラザール・カルノーとガスパール・モンジュにより Ecole centrale des travaux publics の名称で設立される。初代校長はジョゼフ=ルイ・ラグランジュが就いた[要検証 – ノート]。
1805年、皇帝ナポレオン・ボナパルトによってパリ市カルチエ・ラタンに軍学校として移設。
1814年、第六次対仏大同盟のパリ防衛戦(パリの戦い、Bataille de Paris (1814))に学生が参加。
1830年、フランス7月革命においては、40人の学生がこれに参加。
1972年、女性が初めて入学。
1985年、博士号の付与を開始する。
1976年、キャンパスをパリ市から移転し、エソンヌ県パレゾー市に本部を置く。
2020年、パリサクレー大学創設。
1994年1月に東京大学工学部と国際交流協定を結んでいる。
パリ祭で行進する生徒達
パリ祭
キャンパス図
キャンパスの空中写真
組織パリ防衛戦(1814年)への学生参加を描いた像。
ナポレオン・ボナパルトがフランス革命後の技術将校の不足に対処するために軍に所属させた経緯により[5]、現在も国防省が装備総局を通じて所管する。 但し、あくまでそれは歴史的経緯であり、エコール・ポリテクニーク(Ecole polytechnique)は、軍事系グランゼコールではなく理工系グランゼコールであり、士官養成のためにサン・シール陸軍士官学校や海軍士官学校、空軍士官学校など軍事系のグランゼコールが別に存在する。
ポリテクニークは文民の技術者・科学者のための理工系学校(実質的にフランスの技術系官庁の高官はすべてポリテクニーク出身者で占められ、これは非技術系官庁におけるフランス国立行政学院出身者と同様である)であり、なおかつ三軍(陸海空軍)の将校のための技術系学校でもあるという二つの役割を常に担ってきた。これらの二つの部門は、かなり19世紀的な実証主義的国家観において、国家を指導する科学・工学系エリートをフランス国家に供給するという計画の一部を担っている。この文官や軍将校を育成するという部分は1950年代以降は弱まり、今ではポリテクニークの学生の約10%が軍人や公務員になることを選ぶのみである(この内20%は研究職に就き、残りの大部分は技術職や管理職に就く)。卒業後、公務員にならずに米国や英国などの海外で働くことを望む卒業生も多い。
ポリテクニークは、もはや軍学校ではないものの、事務局長は将官の軍人であり、幹部や管理職、スポーツ教員にも軍人が採用されている[7]。ポリテクニーク学生は男性、女性ともに正規将校であり[8]、入学後暫くは軍事訓練に行かねばならない[9][10]。
しかしながら、ポリテクニークの軍事的な側面は年々薄れてきており、初期軍事訓練の期間も短縮され、軍人になる卒業生も年々減っている。1980年代中ごろに「内勤服」が廃止されて以降、ポリテクニーク学生はキャンパスでは普段は制服を着用していないが、パリ祭の際にシャンゼリゼ通りで行われる軍事パレードやキャンパス内の特別なイベント(重要会議、公式行事、重要な課業)などでは19世紀風の二角帽子(ビコーン)の大礼装を着用する。これは、ケンブリッジ大学やオクスフォード大学におけるアカデミックドレスと同様の使われ方である。