エコール・デ・ボザール
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古代ギリシア建築が多彩色を用いて派手やかに彩られていたかいなかったかという問題で、ジャック・イニャス・イトルフのローマから送りつけた実測図はその問題を最初に投げかけ、古代建築彩色論を登場させた。

フランス建築家にとってイタリアに赴くということは古典古代の建築をじかに観察し直接肌で感じることができるということにほかならなく、以前からローマ留学生達は古代の建築を丹念に実測し克明に素描していた。しかしパエストゥムの発見以降、ギリシア建築が現実に建築家達の眼前に晒され、加えて中近東のそれや古代エジプト建築もその実像が明らかになってきた。ナポレオンエジプト遠征軍が多数の考古学者を引き連れていったことからも解るとおり、当時の人々はそうしたローマ以前の古代世界に対して並み外れた関心を抱いていたのである。実際ギリシアエジプトの建築が建築家に知られるようになってきて従来古典と考えられてきたローマ建築は古典期の最後に位置するものと認識されるようになったし、古代世界なるものも人々の意識の中ではるかに奥深いものとなり、考古学的発掘とあいまって、建築家にインスピレーションを汲み取るべき古代建築もそのレパートリーを増やしていた。

建築家らが主張したのはむしろ、同時代の作品を生み出していくにあたってその規準原理としての原色効果で、古典主義建築、あるいは世紀末以降の新古典主義の建築家が考えもしなかった様々な色彩に彩られた建築を生み出していくことであり、1830年、ジャック・イニャス・イトルフは碑文アカデミーにて「ギリシア人における多彩色建築に関する論考」を発表する。古代ギリシア人がいかに色彩を用いて建築を装飾していたかを改めて世に問うたもので、この論考は1851年になって印刷されるが、彼が単に古代建築の復原のみを考えていたのでなく、その中に新しい建築に用うべき新しい原理をもとめていて、彼はギリシア建築の中に、注目すべき形態、たとえば、ポルティコ、列柱、あるいはその平面形式といったものを求めていたのではなくむしろ、形態・要素は建築家の造形意欲に応じて自在に寄せ集め、様々のモチーフ、色彩で建築を豊潤に装飾していくことが重要であるとした。

古代ギリシア建築から多彩色効果を学ぶということは、新古典主義的な作風を一段と躍び越え、19世紀前半の建築の新しい潮流にまで展開していく。18世紀後半から発生したグリーク・リバイバルの運動から考えればその最後の局面といわれ、この多彩色(ポリクロミー)を基調とした様式美から、ギリシャローマ中東からルネサンスまでいろいろな要素を混ざり合わせる新古典主義とはまったく違った体系、折衷様式ネオ・グレコは、発足まもないエコール・デ・ボザールの若い建築家をことごとく魅了したようであるが、19世紀末から20世紀初めにかけて、ヨーロッパでアール・ヌーヴォーなどが出現し、モダン・デザインへの傾斜がみられる中で、海の向こうのアメリカでは逆に建物の前面にオーダーを配し列柱を並べたデザインなどが流行していくこれらの古典様式を施す建築がまさにこの建築である。建築学でこれをボザール様式(アメリカン・ボザール)と呼んでいる。

その背景として、MITの建築学科でボザール帰りの建築家が教鞭を取っていたこと、シカゴ万国博覧会でボザール様式が好評だったことなどがある。日本でも大正から昭和初期に銀行建築などに列柱を並べるデザインが流行したが、アメリカン・ボザールの影響である(三井本館明治生命館など)。

ボザール自体は絵画、彫刻、建築の各美術分野を併せ持った総合美術学校であるが、そのうち建築セクションではほかとはまったく独自に別れて、特権的ともいえる独自の教育方針を採り、その教育システムも19世紀の出発期から1968年の解体にいたるまで、途中1863年にナポレオン3世の介入による大改革以外は、ほとんど変わることなく続けられてくるという、あくまでアカデミーがその教育をつかさどるという創立以来の方針が堅持されてきた。ボザールの基本はアトリエ制であるが、今日の大学のような講座スタジオ研究室などではなく、建築であれば建築家を招いている学生私塾のようなもので、建築家になろうとするものはまずは外国人であってもアトリエに入所し、普通はその所属するアトリエの建築家の推薦を得てボザールの入学志願者の資格を得ることになる。アトリエのパトロン建築家は自身の建築設計事務所は別に主宰している。初期のアトリエパトロンはすべてローマ賞受賞者で占められ、建築家の特権的立場を維持しながら社会をリードしていく建築形態と建築を絶えず生み出していった。

建築アカデミーであれば、当時はA・L・T・ヴォードワイエやナポレオンの庇護を得たペルシエ+フォンテーヌなどのアトリエがローマ大賞受賞者を輩出していて人気が高かった。ペルシエ+フォンテーヌのアトリエからは18人のローマ大賞受賞者と17人の次席を出している。いずれも師匠の作風を受け継ぎつつもより折衷的な方向に向っている。彼らの著作はまたカトルメール・ド・カンシーとは別の意味で新古典主義的な建築論を展開しているが古典主義における規定の絶対性を避け、感性にもとづく建築構成を主張するなど、この議論はちょうど17世紀末の建築アカデミー創設の際、フランソワ・ブロンデルとクロード・ペローが繰り拡げた新旧論争にも似て建築美の基準を何処に求めるかを追求したものであったが、彼らの立場はそれより少し前にヴィジオネールの建築家と呼ばれるブレが感性を重んじ、古い意味での古典派を斥けたような古代の建築を否定するのではなく、古代の建築に顕現する一種の驚きにも似た美的感動を新しい建築に実現しようとする方向性をもっていて、その意味ではきわめてロマン主義的な傾向にも近く、ロマン主義と新古典主義は裏腹の現象であったとみられている。

ボザールで行われる講義は常に理論的な面ばかりで、建築アカデミー所属の教授たちの中でも、特に建築論を担当するものが最も権威であり、かつ学生を対象とした課題設計競技のプログラム作成の担当責任者となっていた。発足以来のバルダールやブルーエ、ルシェールなどがその地位に就いていた。下級を修了した学生は上級に進み、ここでは修業年限が何年という規定ではなく、入学から10年間のみの在籍規定だけで、学生たちは自分のペースに合わせて学業を果たし、1867年までボザールには学科制度は存在していなかった。あるのは唯一のローマ大賞のみで、しかも年間1名だけに与えられていた。こうした教育システムの中で学生たちは適当に学校を離れて、建築実務に就いていたのである。詳細は「ボザール様式」を参照「歴史主義建築」も参照

ニューヨーク近代美術館で1975年から76年にかけて開催されたエコール・デ・ボザールの建築展は、フランスでもめったに公開されない図面類までも展示され、大変な反響を呼んだ。ボザールで建築史を講じ、のちに美術アカデミーの終身書記の役職に就任したルイ・オートクールはボザールに関する詳しい記録を7巻にもおよぶ大著で残している。

入学方法は、所属するアトリエで修行をしながら、志願者は入学試験準備にとりかかり、めでたく入学試験に合格したものが、ボザール下級の学生として登録されることになる。学生の生活基盤は常にアトリエにあって、○○アトリエ所属というかたちで認定を受けた。アトリエは国や学校やアカデミーから費用等が出費されているものではなく、学生たちがみずから組織し、上下関係の序列の中に組みたてられ、その上に先生を招いているという形式で、学生の間で選出された長がそのアトリエの管理運営を行い、建築家に謝礼を支払っていた。


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