エイブラハム・リンカーン
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イリノイ州選出ホイッグ党議員はリンカーン1人だったが、投票を行うほとんどすべての機会に参加し、党の路線に沿った演説を行うことで党への忠誠を示した[79]。奴隷制廃止論者のジョシュア・R・ギディングスとの共同提案で、コロンビア特別区における奴隷制を廃止するという法案を起草した。これには奴隷所有者に補償金を支払うこと、逃亡奴隷を捕らえることを強制すること、さらにこの件について住民投票を行うことという条件がついていた。しかしホイッグ党支持者から十分な支持を得られなかったため、この法案を取り下げた[80]。信頼されるべきホイッグ党員として彼はしばしば党首のヘンリー・クレイを賞賛した。下院議員として多くの時間を彼はワシントンD.C.で一人で過ごし、また政治家仲間にめざましい印象を与えた。外交政策や軍事政策では米墨戦争に反対し、その原因がジェームズ・ポーク大統領の「軍事的栄光 - 血の雨の後に出来る魅力的な虹」への野望にあるとして反戦の演説を行った[81]ウィルモット条項も支持した。これが成立しておれば、アメリカ合衆国がメキシコから獲得した領土で奴隷制が禁じられるはずだった[82]

1847年、リンカーンは「スポット決議」(連邦議会下院における現地点問題に関する決議案[83])を起草し提案することでポークに対する反対を強調した。この戦争は、メキシコとアメリカ合衆国との間で紛争になっている地域で、メキシコ兵がアメリカ兵を殺したことに始まっていた。ポークはメキシコ兵が「我が国の領土」を侵犯し、「我が国の大地」で仲間市民の血を流させたと主張した[84][85]。リンカーンはポークに血が流された正確な地点を示し、そこがアメリカの大地であることを議会に示すよう要求した[85]。議員たちの多くも、ホイッグ党の議員が民主党を攻撃しているという程度にしか受け止めず[86]、議会はこの決議案を取り上げず議論すらしなかった。全国紙はこれを無視し、リンカーンの地元のイリノイ州では、民主党系の新聞が予想通りリンカーンを攻撃した[86]。リンカーンはその選挙区での支持をなくす結果になった。あるイリノイ州の新聞が「スポッティ・リンカーン」とあだ名をつけて嘲った[87][88][89]。リンカーンはのちに、自分の声明の中で特に大統領の戦争遂行能力を攻撃したことを後悔した[90]。高木八尺は、「本質的には、国策決定の根底に事実の歪曲、虚偽の介在を許すべからずとする人間リンカーンの血のにじむような良心の叫びだった」と評している[91]

1848年のホイッグ党大統領候補指名選挙では、ヘンリー・クレイでは勝ち目がないと理解し、下院で1期のみ務めると誓っていたリンカーンはザカリー・テイラー将軍を支援した[92][93]。テイラーが当選し、リンカーンは土地利用局のコミッショナーに指名されることを期待していたが、この職は同じイリノイ州出身のライバルであるジャスティン・バターフィールドが行った。バターフィールドは内閣から高度に熟練した弁護士と考えられていたが、リンカーンの見解では「古い化石」に過ぎなかった[94]。下院の任期が終了したとき、来るテイラー政権はリンカーンに論功行賞としてオレゴン準州の州務長官あるいは知事の職を用意した。この遠隔の地は民主党の強い地盤であり、それを受ければイリノイ州での法律と政治の経歴に終止符が打たれると判断したリンカーンはそれを断り、スプリングフィールドに戻って、活動的なホイッグ党員のままではあったがその精力のほとんどを弁護士の活動に向けた[95]
弁護士職 (3. ウィリアム・H・ハーンドン)

1844年には、リンカーンが「学問好きな若者」と評していたウィリアム・H・ハーンドンとの法律実務を始めた[96]。リンカーンは、スプリングフィールドで法律実務に戻り、「プレーリーの弁護士の前に来るあらゆる種類の案件」を取り扱った[97]。年2回、1回あたり10週間で16年間、州の中央にある郡庁所在地で郡裁判所が開かれているときに現れた[98]。国が西方に拡張していく中で、多くの運輸関係訴訟を取り扱った。特に、新しい鉄道橋の下を通る川のはしけの運行から持ち上がる紛争が多かった。リンカーンは川船に乗った経験があり、当初は川船の側についていたが、最終的には雇われればどんな仕事でもした[99]。その評判は上がり、橋に衝突した後に沈んだ運河用船の訴訟では合衆国最高裁判所の法廷にも立った[100]。1849年には喫水の浅い水域で船を動かすために浮上装置の特許を取得した。このアイディアは商業化されなかったが、リンカーンは特許権を得た唯一の大統領となった[101][102]

1851年にオールトン・アンド・サンガモン鉄道(英語版)に代わって、その株主ジェームズ・A・バレットを訴えた。バレットはオールトン・アンド・サンガモン鉄道が計画した路線を変更したという理由で、株を購入するときに誓約した企業に対する差引勘定の支払いを拒絶した[103][104]。リンカーンは、法律問題として公益のためであれば企業は契約書に拘束されないと主張した。新しく提案されたオールトン・アンド・サンガモン鉄道の路線は、以前の路線に比べ利便性に勝り、変更のための費用もそれほどかからなかった。したがって、オールトン・アンド・サンガモン鉄道には逆に支払いの遅延でバレットを訴える権利があった。リンカーンはこの訴訟に勝利し、イリノイ州最高裁判所によるこの判例はアメリカ国内の他の法廷で引用されることとなった[103]。リンカーンはイリノイ州最高裁判所に175の訴訟で出廷し、そのうち51件は単に助言だったが、31件で有利な判決が出た[105]

1853年から1860年、リンカーンのもう一つの重要な顧客はイリノイ・セントラル鉄道だった[106]。上述以外の鉄道弁護士としての仕事は、州がイリノイ・セントラル鉄道に許可した免税に関する訴訟だった。マクリーン郡は、州にはそのような免除を与える権限がないと主張し、鉄道会社への課税の権利を主張した。1856年1月にイリノイ州最高裁判所は、リンカーンの申し立てを受理して免税が妥当であるとする見解を示した。

弁護士としての彼は非常に精力的で、寝る間を惜しんで働いていたことから、周囲から「正直者エイブ」「働き者エイブ」と親しまれていた。しかし実は、妻がヒステリー持ちでしばしばリンカーンに当たり散らすため、家にあまりいたくないとの理由でオフィスで働いていたといわれる。

リンカーンが扱ったもっとも有名な刑事事件は、1858年にジェイムズ・プレストン・メッツカーの殺人容疑で起訴されたウィリアム・"ダフ"・アームストロング(英語版)の弁護だった[107]。この事件では、目撃者の信用性に異議申し立てするために司法判断によって成立した事実を使うという方法で彼は有名になった。目撃者が深夜に犯罪を目撃したという証言に反論した後、農民暦を取り出して、月が低い角度にあったことを示し、視認性が非常に落ちていたはずだと語った。この証拠に基づき、アームストロングは無罪となった[107]。リンカーンは法廷ではめったに声を荒らげることはなかった。しかし1859年の事件では、他人を刺殺した容疑で告発されたいとこのピーチー・ハリソンの弁護に当たり、被告の利益につながる証拠を判決から除外していると、激怒しながら抗議した。


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