エイブラハム・リンカーン
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得票数300票のうちニューセイラムから277票を受けていた[48]

リンカーンはニューセイラムの郵便局長を、さらにのちには郡測量士を務め、その間も貪欲に読書を続けた。その後弁護士になる決心をし、ウィリアム・ブラックストンの『イギリス法注釈』などの書籍を読むことで法律を独学し始めた。その学習方法について「私は誰にもつかずに学んだ」と語っていた[49]
1834年イリノイ州議会議員選挙

リンカーンが1834年に州議会議員へ2度目の出馬を行う決断をした背景には、彼の言う「国の負債」を支払う必要性と、議員としての給与に伴う追加収入に強く影響されるものがあった。この時期までにリンカーンはホイッグ党員となっていたが、その選挙戦略は国家的問題に関する議論を避け、地区内をくまなく歩いて有権者一人ひとりにあいさつすることに集中された。その地区のホイッグ党を指導するのは、リンカーンがブラック・ホーク戦争のときから知っていたスプリングフィールドの弁護士ジョン・トッド・スチュアート(英語版)だった。地元の民主党員はリンカーンよりもスチュアートの方を恐れており、13人いた党候補者のうち2人を降ろして(1832年と同様に上位4人が当選)リンカーンへの支持を表明し、スチュアートを破ることに集中できるようにした[50]。スチュアートは自身の勝利を確信しており、リンカーンに民主党の後援を受け入れるよう助言した。この戦略が功を奏し、8月4日の選挙ではリンカーンが第2位の得票数となる1,376票を得て当選し、スチュアートも当選した[51]。リンカーンは、多くの聴衆に向かって話す時でも一番端にいる者にも聞こえるように、声を鍛えた。あるとき、11歳の少年が一番前の席でリンカーンが演説するのを見上げていると、額に霧のようなものが落ちてきて濡れてしまったという。しかし、その少年は大きなハンカチを使ってその場を動かなかったということである[52]。リンカーンの演説にはそれほど人を惹きつける力があった。

リンカーンの最初の恋は、ニューセイラムに初めて来たときに出会ったアン・ラトリッジだったとする説がある。1835年には交際をしていたが、正式に婚約することはなかった。アンはこの年8月25日に死んでおり、腸チフスだったとされている。
スプリングフィールド時代
弁護士職 (1. ジョン・トッド・スチュアート)

1836年には法廷弁護士として認められ[53]、スプリングフィールドに転居した。のちに妻となるメアリーのいとこであり、上にも触れたジョン・トッド・スチュアート(英語版)の下で法律実務を始めた[54]。弁護士としては、反対尋問や最終弁論では手強い相手という評判を得、有能で成功した弁護士となった。
1836年・1838年イリノイ州議会議員選挙

1835年から1836年、下院議会で白人男性の選挙権を土地の所有にかかわらず拡大する案に賛成の投票を行った[55]。奴隷制と奴隷制廃止論のどちらにも反対する「自由土地派」(free soil)と呼ばれた政治姿勢で知られた。1837年にこのことについて初めて発言し、「奴隷制度は不正と悪政にねざすことを信じるが、しかし奴隷廃止論の公布はその害悪を減ずるよりはむしろ増大させるものと信ずる」と述べている[56][57]アメリカ植民地協会を推進していたヘンリー・クレイに密接に従い、解放された奴隷をアフリカリベリアに再入植させることで、奴隷制を事実上廃止できると考えていた[58][59]

イリノイ州下院議員の方はサンガモン郡選出のホィッグ党員議員として連続4期(8年間)務めた[60]
弁護士職 (2. ステイーブン・T・ローガン)

1841年から1844年にはステイーブン・トリッグ・ローガン(英語版)と共同で法律事務所を運営した。
結婚と家族「リンカーン家」も参照.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}1864年に撮影されたリンカーンと末っ子のタッドメアリー・トッド・リンカーン、この写真は28歳のとき

1830年代前半にはケンタッキーから姉妹の家を訪れていたメアリー・オーウェンズと出会った。1836年後半、リンカーンはメアリーがニューセイラムに戻ってくる場合には結婚することに合意した。メアリーは1836年11月に実際に戻ってきて、2人はしばらく交際したが、2人共、その関係を再考することになった。1837年8月16日、リンカーンはメアリーに宛てて、彼女が2人の関係を終わらせたとしても決して責めたりはしないということを示唆する手紙を送った。メアリーはこれに対する返事を出さず、2人の交際は終わった[61]

1840年、ケンタッキー州レキシントンの裕福な奴隷所有家の出身であるメアリー・トッドと婚約した[62]。2人は1839年12月にイリノイ州スプリングフィールドで出会って[63]、翌年12月には婚約していた[64]。結婚式は1841年1月1日とされていたが、リンカーンからの申し出で婚約が破棄された[63][65]。しかし、のちにあるパーティで再会し、1842年11月4日にスプリングフィールドにあるメアリーの姉妹が嫁いでいた邸宅で結婚した[66]。結婚式の準備をしているときに再度ためらう気持ちになり、どこへ行こうとしているかを問われて「地獄へだと思う」と答えていた[67]

1844年、この夫婦は、スプリングフィールドにあるリンカーン法律事務所の近くで家を購入した[68]。メアリーはケンタッキーの家であれば家族がこなしていたであろう家事一切を引き受け、勤勉に働いた。彼女は夫が法律実務で挙げる限られた収入でやりくりすることもできた[69]

1843年に長男のロバート・トッド・リンカーン(1843年8月1日 - 1926年7月26日)が生まれた。1846年には次男のエドワード・ベイカー・リンカーン(エディ、1846年3月10日 - 1850年2月1日)が生まれた。リンカーンはかなり子供好きであり[70]、しつけには厳しくなかったと考えられている[71]。ロバートはリンカーンの子供の中で、成人まで成長した唯一の子供になった。エディは1850年2月1日に死去、死因は結核と考えられている。1850年12月21日にウィリアム・ウォレス・リンカーン(ウィリー)が生まれ、1862年2月20日に死去。四男タッド・リンカーンは1853年4月4日に生まれ、1871年7月16日、18歳で心不全のために死去した[72]


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