エイブラハム・リンカーン
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このとき、リンカーンはいきなり「ではあなたがこの大きな戦争を起こした本を書いた小さな婦人ですね」と述べた[40]。ハリエットに付き添っていた娘のハティは、兄弟にあてた手紙の中でこの時の様子を述べ、「ホワイトハウスで過ごした時間はとてもおどけていたのよ、本当よ」と書き、「帰ってからはなすけれど、とにかくとてもおかしくて、いつも今にも笑いが爆発しそうだったわ」と会談の雰囲気を描いていた[41]。リンカーンのユーモアを推測させる逸話である。
政治と民兵隊参加

1832年、23歳のリンカーンと共同経営者がニューセイラムで小さな雑貨屋を借金で購入した。経済は上り調子だったが、事業は難しく、リンカーンは最終的に持ち分を手放した。この年、イリノイ州とソーク族およびフォックス族インディアン連合との間で、ブラック・ホーク戦争が始まった。ソーク族とフォックス族は、この地に広大な領土を持っていたが、イリノイ州は彼らを州外へ追い出そうとした。リンカーンはイリノイ州民兵隊に大尉として参加したが、戦闘することなく政治活動のために三ヶ月で除隊した[42][43]

ニューセイラムでの最初の冬、リンカーンはニューセイラム討論クラブの集会に出席した。ここで行ったこと、店や製材所、製粉所を切り盛りする効率のよさ、さらには彼自身の自立していく努力もあって、間もなく町の指導者であるジョン・アレン博士、メンター・グラハムおよびジェイムズ・ラトリッジなどから敬意を持って迎えられるようになった[44]。彼らはリンカーンがこの成長する町に利益をもたらすことができると考えて政治の世界に入ることを勧め、1832年3月にリンカーンは、スプリングフィールドの印刷屋「サンガモン・ジャーナル」に持ち込んだ原稿でイリノイ州議会議員候補者になることを宣言することで、政治との関わりを始めた。
1832年イリノイ州議会議員選挙

ブラック・ホーク戦争から戻ると、4月6日の選挙日に向けて運動を始めた。リンカーンはサンガモン川の航行の方法を改良することを訴えていた[45]。ニューセイラムでは生まれつきの雄弁家として人気を集め聴衆を惹き付けた。リンカーンの身長は6フィート4インチ (193 cm) あり[46]、「対抗馬をおびえさせるほど強かった」。初めて演説をしているとき、群衆の中の支持者が攻撃されているのを見て、攻撃者の「首とズボンの尻の部分を」つかみ、放り投げた[47]。しかし、教育がなく、強力な友人と金がなかったことがその落選に結びついた可能性がある。選挙結果でリンカーンは立候補者13人のうち8位(上位4位までが当選)だった。得票数300票のうちニューセイラムから277票を受けていた[48]

リンカーンはニューセイラムの郵便局長を、さらにのちには郡測量士を務め、その間も貪欲に読書を続けた。その後弁護士になる決心をし、ウィリアム・ブラックストンの『イギリス法注釈』などの書籍を読むことで法律を独学し始めた。その学習方法について「私は誰にもつかずに学んだ」と語っていた[49]
1834年イリノイ州議会議員選挙

リンカーンが1834年に州議会議員へ2度目の出馬を行う決断をした背景には、彼の言う「国の負債」を支払う必要性と、議員としての給与に伴う追加収入に強く影響されるものがあった。この時期までにリンカーンはホイッグ党員となっていたが、その選挙戦略は国家的問題に関する議論を避け、地区内をくまなく歩いて有権者一人ひとりにあいさつすることに集中された。その地区のホイッグ党を指導するのは、リンカーンがブラック・ホーク戦争のときから知っていたスプリングフィールドの弁護士ジョン・トッド・スチュアート(英語版)だった。地元の民主党員はリンカーンよりもスチュアートの方を恐れており、13人いた党候補者のうち2人を降ろして(1832年と同様に上位4人が当選)リンカーンへの支持を表明し、スチュアートを破ることに集中できるようにした[50]。スチュアートは自身の勝利を確信しており、リンカーンに民主党の後援を受け入れるよう助言した。この戦略が功を奏し、8月4日の選挙ではリンカーンが第2位の得票数となる1,376票を得て当選し、スチュアートも当選した[51]。リンカーンは、多くの聴衆に向かって話す時でも一番端にいる者にも聞こえるように、声を鍛えた。あるとき、11歳の少年が一番前の席でリンカーンが演説するのを見上げていると、額に霧のようなものが落ちてきて濡れてしまったという。しかし、その少年は大きなハンカチを使ってその場を動かなかったということである[52]。リンカーンの演説にはそれほど人を惹きつける力があった。

リンカーンの最初の恋は、ニューセイラムに初めて来たときに出会ったアン・ラトリッジだったとする説がある。1835年には交際をしていたが、正式に婚約することはなかった。アンはこの年8月25日に死んでおり、腸チフスだったとされている。
スプリングフィールド時代
弁護士職 (1. ジョン・トッド・スチュアート)

1836年には法廷弁護士として認められ[53]、スプリングフィールドに転居した。のちに妻となるメアリーのいとこであり、上にも触れたジョン・トッド・スチュアート(英語版)の下で法律実務を始めた[54]。弁護士としては、反対尋問や最終弁論では手強い相手という評判を得、有能で成功した弁護士となった。
1836年・1838年イリノイ州議会議員選挙

1835年から1836年、下院議会で白人男性の選挙権を土地の所有にかかわらず拡大する案に賛成の投票を行った[55]。奴隷制と奴隷制廃止論のどちらにも反対する「自由土地派」(free soil)と呼ばれた政治姿勢で知られた。1837年にこのことについて初めて発言し、「奴隷制度は不正と悪政にねざすことを信じるが、しかし奴隷廃止論の公布はその害悪を減ずるよりはむしろ増大させるものと信ずる」と述べている[56][57]アメリカ植民地協会を推進していたヘンリー・クレイに密接に従い、解放された奴隷をアフリカリベリアに再入植させることで、奴隷制を事実上廃止できると考えていた[58][59]

イリノイ州下院議員の方はサンガモン郡選出のホィッグ党員議員として連続4期(8年間)務めた[60]
弁護士職 (2. ステイーブン・T・ローガン)

1841年から1844年にはステイーブン・トリッグ・ローガン(英語版)と共同で法律事務所を運営した。
結婚と家族「リンカーン家」も参照.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}1864年に撮影されたリンカーンと末っ子のタッドメアリー・トッド・リンカーン、この写真は28歳のとき

1830年代前半にはケンタッキーから姉妹の家を訪れていたメアリー・オーウェンズと出会った。1836年後半、リンカーンはメアリーがニューセイラムに戻ってくる場合には結婚することに合意した。メアリーは1836年11月に実際に戻ってきて、2人はしばらく交際したが、2人共、その関係を再考することになった。1837年8月16日、リンカーンはメアリーに宛てて、彼女が2人の関係を終わらせたとしても決して責めたりはしないということを示唆する手紙を送った。メアリーはこれに対する返事を出さず、2人の交際は終わった[61]

1840年、ケンタッキー州レキシントンの裕福な奴隷所有家の出身であるメアリー・トッドと婚約した[62]


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