奴隷制の拡張に反対するリンカーンの大統領当選は南部諸州の反発を招き、アメリカ合衆国を二分する南北戦争に結びついたが、北部連邦をよく指揮して、勝利へ導いた[要出典]。しかし、南部連合総司令官のロバート・E・リー将軍が降伏した6日後の1865年4月15日、アメリカ合衆国首都・ワシントンD.C.にあるフォード劇場において、観劇中にジョン・ウィルクス・ブースの凶弾に倒れた。これにより、リンカーンはアメリカ史上で初めて暗殺された大統領となった。
一方で、インディアンに対しては当時の米国政府の路線を引き継ぎ、ロング・ウォーク・オブ・ナバホや、ダコタ戦争などのインディアン戦争は、リンカーン政権下の南北戦争中にあっても並行して続行されていたが、現場や該当地域州民から反発を招いても和平家から要請を受け入れ、法にのっとった恩赦の実施や配慮を申し渡していた[5][6]。 リンカーンに日本人として初めて謁見したジョセフ彦[7]こと浜田彦蔵が1864年に発行した「海外新聞」記事の記載例を見ると、「リンコルン」[注釈 1]が6例、「レンコロン」が4例、「リンコリン」「レンコレン」が1例ずつと、本間清雄や岸田吟香ら記者によって表記が分かれている[9]。 1907年には、翻訳家の山縣悌三郎が次のように言及している。 明治末から1970年までの新聞切抜資料集である神戸大学の新聞記事文庫にも複数の訳があり、それぞれの初出は「リンコルン」が1912年、「リンカーン」が1913年、「リンカン」が1917年、「リンコン」が1927年(ただしリンコンは自動車の記事のみで人名には用いられていない)。件数も「リンカーン」126件、「リンコルン」89件、「リンカン」20件と、長音で「リンカーン」とする表記とローマ字読みの「リンコルン」が多数を占めている。 立身伝は明治・大正期の日本で評判となり出版物が相次いで刊行された。それらの表記は、1909年の『内外教訓物語 人之巻』では「リンコルン」、ほかにも櫻井鴎村の1918年の著作『リンコルン物語』があり、内ヶ崎作三郎の1919年の著作も『リンコルン』である。また、複数の作者により唱歌も作られており、国立音楽大学附属図書館索引で確認できる3曲のタイトルは全て『リンコルン』である。 1926年の高級車リンカーンの広告においては、「リンコン」の表記が確認できる[10]。ほかにも島崎藤村の晩年の作品に『アブラハム、リンコンの母』がある[11]。 このように、明治から戦後にかけて日本語でのカナ表記はまったく統一されておらず、のちに「リンカーン」でほぼ統一された経緯も不明である。 1991年に国語審議会が発表した「外来語の表記」において、「Lincoln」を「リンカーン」と表記することが定められた[12]。※ただし、「語例は、それぞれの仮名の用法の一例として示すものであって、その語をいつもそう書かなければならないことを意味するものではない」と留意事項が記されている。 2023年現在、高等学校の世界史教科書では英語発音に近い「リンカン」で統一され、中学校の歴史教科書でも「リンカン」を採用する出版社が増えている[13]。
日本語での表記について
ジョセフ・H・チョート『リンコンの人物及び其の事業』。ウィキソースより閲覧。"從來リンコンの名はアブラハム・リンコルン,若くはリンコーンと發音せられたるが、皆誤れり。正しきはエーブラハム・リンコン也。"。
生涯
生い立ち詳細は「エイブラハム・リンカーンの前半生」を参照