エアロスミス
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1970年夏、アメリカニューハンプシャー州サナピー湖にあるクラブ「ザ・バーン」で友人関係にあったジョー・ペリートム・ハミルトンらによるバンド「ザ・ジャムバンド」の演奏をスティーヴン・タイラーが観ており、彼らに新バンドを組む話を持ちかけた事が「エアロスミス」誕生の発端とされている[26]。スティーブンはすでに別のバンド(「ザ・ストレンジャーズ」や「チェーン・リアクション」)でドラマーボーカルとして活動しており、地域で知名度もあった。

この新バンドでスティーブンはフロントマンに徹し、ドラマーにジョーイ・クレイマー、もう1人のギタリストにレイモンド・タバーノ(1946?)が加入し活動がスタート。バンド名はジョーイが高校時代からイメージしていたバンド名にちなんで「エアロスミス」に決まった[注釈 1]。バンドロゴはレイモンドの原案が採り入れられた。

しかし、翌1971年にレイモンドが脱退。バンドは新たなギタリストとしてバークリー音楽大学を卒業し、複数のバンドでの経験もあるブラッド・ウィットフォードを迎えることになり、オリジナルメンバーが揃うことになる。

はじめはカバー曲中心のパーティバンドのような活動をしていたが、ボストンの「フェンウェイ・シアター」支配人からの紹介により地元有力プロモーターに出会い、マネジメント契約を結ぶ。その後、マネジメント会社の交渉により1972年夏にコロムビア・レコードとの契約が成立した。こうしてエアロスミスはデビューする足掛かりを掴んだ。
1973年(デビュー) - 1977年

1973年1月、1stアルバム『野獣生誕』でデビュー。アルバム収録曲の「ドリーム・オン」がアメリカ東海岸地区のロック系ラジオを中心として注目され、同曲をシングルカット。全米チャート59位(Billboard Hot 100)まで上昇するヒットとなる。

1974年3月、2ndアルバム『飛べ!エアロスミス』を発表。1年以上に渡って全米チャート200位圏内(Billboard 200)に入り続ける、ロングヒット作品になった。プロデューサーはジャック・ダグラスが担当した。トロント公演で演奏するトム・ハミルトン(1975年)

1975年4月、3rdアルバム『闇夜のヘヴィ・ロック』を発表。「ウォーク・ディス・ウェイ」や「スウィート・エモーション」もシングルヒットし、アルバムも全米チャート11位(Billboard 200)まで上昇。バンド初のプラチナ・ディスクを獲得した。この勢いで前2作のアルバムのセールスも上がり、シングル「ドリーム・オン」は再発売されて全米チャート6位(Billboard Hot 100)まで上昇した。なお、日本では同年5月に『飛べ!エアロスミス』が発売されて日本デビューとなった。

1976年4月、全米ツアー開始。ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでのライブも開催。5月には4thアルバム『ロックス』を発表。全米アルバムチャート3位(Billboard 200)を記録し、「ラスト・チャイルド」、「ホーム・トゥナイト」、「バック・イン・ザ・サドル」もシングルヒットする。日本でも彼らの知名度は上がり、「クイーン」、「キッス」らと並び“3大バンド”[21][22]の1つとして人気を博した。10月には初のヨーロッパツアーを開始。翌1977年2月には初の日本ツアーも行っている。また前座にはBOWWOWが参加した。
1977年 - 1983年

人気の拡大とともにバンド活動には2度目のヨーロッパツアーを含む大規模なツアーが組み込まれ、その合間に次作のレコーディングが行われるという過酷なスケジュールになり、以前から使用していたとされるドラッグも使用頻度が増していった(薬物乱用)。そのような中、1977年12月に5thアルバム『ドロー・ザ・ライン』を発表。全米チャート11位(Billboard 200)のヒットとなる。1978年3月にはロック・フェスティバルカリフォルニア・ジャム2』でヘッドライナーを務め、同年7月から公開されたビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を取り上げた同名タイトルの映画にも出演。ジョージ・マーティンをプロデューサーに迎え、「カム・トゥゲザー」をカバーするなど精力的な活動が続いていた。しかし、バンド内ではスティーヴンとジョーの関係悪化が進み、ステージ上で小突き合いまでしていた[27]。さらに、バンド内に蔓延しているドラッグ癖が次作のアルバム制作にまで影響を及ぼす状況になっていた。そして、1979年7月のロック・フェスティバル『ワールド・シリーズ・オブ・ロック』出演後に些細な出来事からバンド内で大喧嘩が起こり、ジョーがバンドを脱退する事態にまで発展した。

同年11月、ジョーは新たに「ジョー・ペリー・プロジェクト」を立ち上げてライブ活動を始め、バンドはジョーに代わるギタリストとしてジミー・クレスポを加入しアルバム制作を続行し、制作途中であった6thアルバム『ナイト・イン・ザ・ラッツ』を完成させた(プロデューサーはゲイリー・ライオンズ)。

1980年3月、ジョー・ペリー・プロジェクトが1stアルバム『熱く語れ!』を発表。一方、スティーヴンの負傷などにより活動が停滞していたバンドは、10月に初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』を発表する。

1981年8月、ブラッドがデレク・セント・ホルムズとアルバム『ウィットフォード/セント・ホムルズ』を発表しバンドから脱退する。また、ジョー・ペリー・プロジェクトは2ndアルバム『忘れじのロックン・ロール』を発表する。

1982年8月、ブラッドに代わるギタリストにリック・デュファイを迎えて7thアルバム『美獣乱舞』を発表。

1983年9月、ジョー・ペリー・プロジェクト3rdアルバム『いつまでも熱く』発表。
1984年 - 1996年

1984年2月、エアロスミスのボストン公演をジョーとブラッドが訪れる。後日、話し合いの場が持たれてオリジナルメンバーでの再活動が決まり、諸条件(ドラッグ、アルコールからの脱却とマネジメントの刷新)を整えてツアーを開始。レコードレーベルゲフィン・レコードに移籍する。

1985年11月、プロデューサーにテッド・テンプルマンを迎えた8thアルバム『ダン・ウィズ・ミラーズ』を発表。

1986年Run-D.M.C.が「ウォーク・ディス・ウェイ」をカバー。スティーヴンとジョーがレコーディングに参加しミュージック・ビデオにも出演した。このシングルは全米チャート4位(Billboard Hot 100)のヒットとなり[28]、エアロスミスが音楽シーンにカム・バックしていくきっかけになった。

1987年8月、プロデューサーにブルース・フェアバーンを迎えた9thアルバム『パーマネント・ヴァケイション』発表。全米チャート11位(Billboard 200)を記録し、「エンジェル」、「ラグ・ドール」のシングルもヒットした。翌1988年6月には11年ぶりとなる日本ツアーを行った。

1989年9月、10thアルバム『パンプ』を発表。全米チャート5位(Billboard 200)を記録し、売り上げにおいては、米国だけで700万枚、世界で1100万枚を超える大ヒット作となる。また「エレヴェイター・ラブ」、「ジェイニーズ・ガット・ア・ガン」、「アザー・サイド」、「ホワット・イット・テイクス」のシングルもヒットした。また、12年ぶりとなるヨーロッパツアーや初のオーストラリアツアーも行われた。

1990年グラミー賞で「ジェイニーズ・ガット・ア・ガン」が「ベスト・ロック・パフォーマンス」を受賞[29]MTV Video Music Awardsでも「ヴューワーズ・チョイス」などを受賞[30]。同年9月には日本ツアーを開催。

1991年、MTV Video Music Awardsで「アザー・サイド」が「ベスト・メタル/ハードロック・ビデオ」を受賞[31]。初のボックス・セット『パンドラの箱』を発表する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:157 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef