エアバスA300
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こうして「エアバス」への関心が西欧全体で高まり、1965年のパリ航空ショーの頃からドイツ・フランス間、あるいはフランス・イギリス間などでメーカー間の相談も始まるようになった[12]。1965年10月20日から21日にかけて、英国欧州航空主催によるエアバスシンポジウムが開かれた[12]。この会議に西欧各国の航空会社やメーカーが集まり、200ないし250席で新しい大型エンジンを備えた双発機というエアバス像が練られた[12]。これに沿って1965年11月にはイギリス・フランス両政府のワーキンググループが以下のような欧州エアバスの概要仕様をまとめた[12]

座席数:200 - 225席(座席間隔34インチの1クラス)

航続距離:1,500キロメートル(810海里)

離陸滑走距離:2,000メートル

着陸滑走距離:1,800メートル

その他、1座席を1マイル飛ばすためのコストは727-100より30パーセント低く、在来機よりも低騒音、自動着陸を可能とすることなども要求に盛り込まれた[12]パンアメリカン航空の747。ボーイングは米空軍の大型輸送機の受注に失敗した後、超大型旅客機747を開発した。

一方、米国でも1960年代中頃に大型旅客機を求める動きが盛り上がっていた[12][13][14]。1965年秋に米空軍の大型輸送機CX-HLSの受注に失敗したボーイングは、その設計チームと培われた技術をもって超大型機747を開発することを決定した[12][13]。これはパンアメリカン航空がメーカーに開発を呼びかけていた機材でもあった[13]。また、1966年3月にはアメリカン航空が米国内幹線に適した「大型双発機」の要求仕様を発表し、メーカーに開発を促していた[12][13]。これら米国の大型旅客機計画と比べると、欧州エアバスの要求仕様は特に航続距離が短く、欧州域内の輸送に適した旅客機を目指している点が特徴だった[12]
国際共同開発へ

欧州エアバス構想は欧州のメーカーが開発経験のない大型旅客機であり開発費も高額になると見込まれた[14][10]。当時欧州の航空機メーカーは、米国のボーイングやダグラスに販売機数で大きな差をつけられており、1社単独では巨額の開発費を賄うことは困難視され、現実策として複数メーカーでの共同開発が模索された[14][12][10]

1966年7月にエアバス計画の担当企業としてイギリス政府がホーカー・シドレーを、フランス政府がシュドを指名し、これにドイツのエアバス検討グループが加わり共同プロジェクトとしてヨーロピアン・エアバスを開発することに合意した[12]。同年10月15日にプロジェクト参加企業はそれぞれの政府に対して計画への助成申請を行ったほか、機体仕様のとりまとめも進行して1967年2月に初期仕様書が発行された[12][15]

その後、ヨーロピアン・エアバスは、より広い旅客機市場に対応できるよう最大離陸重量が120トンに引き上げられ機体サイズが300席級に大型化した[12]。この機体案はエアバス (Airbus) の"A"と座席数の"300"を組み合わせてA-300と呼ばれるようになった(当初、ハイフンを含む表記が用いられたが、のちにハイフンなしのA300となっている。)[12][15]。1966年7月にボーイングが正式開発を決定していた747との共通性を重視するよう仕様が変更され、胴体直径は747とほぼ同じ6.4メートル、搭載できる貨物コンテナや床面地上高も747と同じとされた[12]。また、航空会社はエンジンについても747と同じプラット・アンド・ホイットニー(以下、P&W)社のJT9Dを装備するよう要請していた[12]

しかし、イギリスは自国のロールス・ロイス(以下、R-R)が計画していた新エンジン「RB207」の採用を強硬に主張し、英仏独政府間の調整により、機体の取りまとめをフランスが担当するかわりとしてエンジンはR-R製RB207双発のみとなった[16]。1967年9月4日には西ドイツにおけるエアバス事業の受け皿として、MBB[注釈 2]とVFWの合弁によりドイチェ・エアバス社が設立された[17][18]


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