ウ・タント
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1955年にインドネシアで開催されたバンドン会議の幹事を務め、非同盟運動を成立させた。1957年から1961年までビルマの国連常駐代表(国連大使)を務め、アルジェリア独立交渉に積極的に関与した。1961年、タントは国連コンゴ委員会の委員長に任命された。
国連事務総長「1961年の国際連合事務総長の選出」も参照国連事務総長に任命され、宣誓を行うタント

1961年9月、国連事務総長ダグ・ハマーショルドがコンゴに向かう途中の飛行機事故で死亡した。それから2週間で、アメリカとソ連は、ハマーショルドの残任期間について、タントを事務総長代行に任命することで合意していた。しかし、タントの任命の詳細についての議論は、それからさらに4週間を要した。1961年11月3日、安全保障理事会決議168でタントを推薦し、総会は全会一致で、1963年4月10日までの任期でタントを事務総長代行に任命した[18]

任期の第1期において、タントはキューバ危機を鎮静化し、コンゴ動乱を終結させたことで広く評価された。タントは、国連での職に就いている間に、米ソ間の緊張を緩和させたいと考えていたと述べている[19]
第1期: キューバ危機核保有国が衝突の危機に瀕していると思われた決定的瞬間において、事務総長の介入により、キューバに向かったソ連船を回避させ、わが国の海軍に迎撃させることにつながったのである。これがキューバ危機の平和的解決に欠かせない第一歩となった。――アドレー・スティーブンソン、1963年3月13日、第88回議会上院外交委員会において[20]国連本部を訪問中のジョン・F・ケネディと握手を交わしたタント

事務総長就任から1年もしない内に、世界が核戦争に最も近づいた瞬間であるキューバ危機を打開するという重大な課題に直面した。公表2日前の1962年10月20日、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは、U-2偵察機から撮影したキューバに設置されたソ連製ミサイルの写真をタントに見せた。大統領はその後、キューバに向かう全てのソ連艦船を検査して攻撃用兵器を撤去させるよう命じた。その間にも、ソ連の艦船が設定された検査海域に接近していた。タントは、衝突を避けるため、ソ連にミサイルを撤退させることと引き換えに、アメリカが非侵攻保証を行うことを提案した。ソ連首相のニキータ・フルシチョフはこの提案を歓迎し、これが以降の交渉の基礎となった[21]。フルシチョフはさらに、交渉中はミサイルの輸送を停止することで合意した。しかし、1962年10月27日にキューバ上空でU-2偵察機が撃墜され、危機が進行した[22]。ケネディは統合参謀本部と国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)から侵攻に対する激しい圧力を受けていた。ケネディはタントが調停者の役割を果たしてくれることを期待し、統合参謀本部とエクスコムに対して、「一方、我々にはタントがいる。我々は、船を沈めたくはない。...その最中に、ロシアが出てこないようにタントが手配しているはずだ」と答えた[23]

交渉は続いた。アメリカはトルコに配備したミサイルの撤去に合意し、キューバからのソ連製ミサイルの撤去と引き換えに、キューバへの侵攻は絶対にしないことを保証した。タントはキューバに飛び、国連のミサイル査察を許可することと、墜落したU-2のパイロットの遺体の返還についてフィデル・カストロと話し合った。カストロは、自分の知らないところでソ連がミサイル撤去に合意したことに激怒し、国連の査察を断固拒否したが、パイロットの遺体の返還は認めた。検査はアメリカの偵察機と軍艦によって海上で行われた。危機は解決され、超大国同士の戦争は回避された[15][24]
第1期: コンゴ動乱

フルシチョフがケネディに宛てた書簡の中で、タントについて好意的な言及を何度かしていたことで、タントの事務総長再任は確実なものとなった[25]。1962年11月、国連総会は満場一致で、1966年11月3日までの任期でタントを事務総長代理から事務総長に昇格させることを決議した[26]。個人的な理由から、タントは最初の就任から5年で任期を終えることを望んでおり[25]、就任から最初の5年間を1期とみなすことになった[27]

タントは、明白な平和主義者で敬虔な仏教徒であったが、必要なときには武力行使を躊躇しなかった。1962年のコンゴ動乱において、モイーズ・チョンベ率いるカタンガ分離派国連コンゴ活動(ONUC)を繰り返し攻撃した。1962年12月、ONUCがカタンガで4日間にわたる持続的な攻撃を受けた後、タントは「カタンガ全域でのONUCの完全な移動の自由を得るため」の「グランドスラム作戦(英語版)」を命じた。この作戦により、分離派の反乱は完全に終息した。1963年1月までには、分離派の首都エリザベートヴィルは完全に国連の管理下に置かれていた[28]。タントはコロンビア大学での演説で、1964年半ばに国連コンゴ活動が完了するとの期待を表明した[29]

キューバ危機の鎮静化など平和維持活動に対する貢献により、ノルウェーの国連大使は1965年のノーベル平和賞受賞をタントに伝えた。タントは、「事務総長が平和のために活動しているときは、ただ自分の仕事をしているだけではないですか?」と謙虚に答えた[30]。しかし、ノルウェー・ノーベル委員会のグンナー・ジャーン(英語版)委員長がタントへの授与に強く反対し、土壇場でユニセフに授与することが決定された。他の委員は皆、タントに賞を授与することを望んでいた。翌年・翌々年もジャーンの反対によりタントへの平和賞授与が見送られた[31]。1950年にノーベル平和賞を受賞した、タントの部下にあたる事務次官のラルフ・バンチは、ジャーンの決定を「タントに対する重大な不公平」と呼び、憤慨した[30]

1963年12月24日、キプロスで共同体間の衝突が勃発した。トルコ系キプロス人は飛び地に撤退し、中央政府を完全にギリシャ系キプロス人の支配下に置いた。イギリスの指揮の下に設立された平和維持軍は戦闘に終止符を打つことができず、1964年1月にロンドンで開催されたキプロスに関する会議も不一致に終わった。1964年3月4日、敵対行為が拡大する恐れがある中、安全保障理事会は全会一致で、戦闘の再発防止と秩序の回復を目的とした3か月の時限的な国際連合キプロス平和維持軍(UNFICYP)の設立を承認した。安保理はさらに、キプロス問題の平和的解決を求める調停人を任命するよう事務総長に要請した。タントはガロ・プラザ(英語版)を調停人に任命したが、1965年3月にトルコにより却下されたため、プラザは辞任し、調停人の機能は失効した[32]

1964年4月、タントは自らを常設オブザーバーに指定した聖座の指名を受け入れた[33]。この決定には総会や安保理は関与していない[34]
第2期: 中東戦争とベトナム戦争六日戦争の後、(タントは)自分が国際的な不作為のための都合の良いスケープゴートになることを許容し、できる限りの仏教徒的な無心の境地で、この受け入れがたい役割を受け入れた。――ウォルター・ドーン(英語版)、2007年[35]

1966年、タントは2期目に立候補しないことを表明したが[27]、安保理がタントを「神聖な役職」(glorified clerk)にしないと約束したため、任命を受け入れた[36]。1966年12月2日、安保理の全会一致の勧告に基づき、総会は1971年12月31日までの任期でタントを再任した[37]。2期目の任期中、タントはアジア・アフリカの数十か国の国連加盟を監督し、南アフリカのアパルトヘイトに断固として反対した。また、国連開発計画国連大学国連貿易開発会議、国連訓練調査研究所(英語版)(UNITAR)、国連環境計画など、開発・環境に関する国連の機関・基金・プログラムの多くを設立した。2期目の在任中には、アラブ諸国とイスラエルとの間の第三次中東戦争(六日戦争)、プラハの春とそれに続くチェコスロバキアへのソ連の侵攻、バングラデシュ誕生のきっかけとなった1971年のバングラデシュ独立戦争などが発生した[15]


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