ウンベルト2世
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ブラジルでは第一共和政を打倒してムッソリーニ政権を手本にエスタード・ノーヴォ体制を形成したジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領と会談した。政情が依然として不安定であったため、リオデジャネイロから遷都した臨時首都サルヴァドールでの歓迎式典となり、滞在中にウンベルトは20歳の誕生日を迎えている。各地のイタリア系移民の式典にも当時ブラジル大使を務めていたピエトロ・バドリオ将軍やヴァルガス政権の外務大臣らを従えて出席した。

帰国後は将校として一通りの経験を積んだ後、父から名誉昇進として陸軍中将に推挙され、南部方面軍総司令官に就任した。もっともこれはサヴォイア家の慣例に基づく形式的なものであり(Luogotenente)、実際の指揮権は補佐役の将軍たちやファシスト政権に委任されていた。

父と同じくウンベルトもまた、ファシスト政権とムッソリーニをサヴォイア家の忠臣として信頼し、彼らへの協力を惜しまなかった。そのために反ファシズム勢力からは強く敵視され、ブリュッセル訪問中の1929年10月24日に暗殺未遂事件を起こされることになる。折りしもベルギー王女マリーア・ジョゼとの婚約が取り決められた日、第一次世界大戦で戦死したベルギー兵の記念碑に献花を行っていたウンベルトは、見物客の一人に銃撃された。男は「ムッソリーニと共に倒れろ!」と叫んで銃を撃ったが、弾は外れ、取り押さえられた。暗殺犯はフェルナンド・デローザという男で、第二インターナショナルの構成員だった。

とはいえ、独立した政治行動は父もムッソリーニも望むところではなかった。新婚旅行でドイツを訪問した時に、ウンベルトがアドルフ・ヒトラーと会談を行ったことは、後々イタリア国内で問題視された。ファシスト政権はウンベルトの独断での政治行動を注意深く監視するようになった。
第二次世界大戦前後ベルギー王女マリーア・ジョゼとの結婚式(1930年5月、ミラノ自由イタリア軍幕僚らと前線を視察するウンベルト王太子(1944年)

1930年1月30日、ベルギー王女マリーア・ジョゼとの結婚式が執り行われた。両親と違ってウンベルト夫妻の間柄はあまり良好ではなく、跡継ぎを含む一男三女を儲けたものの、育児を除く私生活では冷え切った関係だった。マリーア・ジョゼがファシズムを嫌っていて政治的意見の対立が多かったことと、ウンベルトに両性愛者(バイセクシャル)の傾向があったためだと言われている。

前者に関しては、ファシスト政権が第二次世界大戦への参加を決定すると、ウンベルトが軍高官として勤務する一方で、マリーア・ジョゼは祖国ベルギーを踏みにじったナチス・ドイツを許せず、イギリスなどの連合国との交渉を密かに続けていた。大戦後期に入って枢軸国側の旗色が悪くなってからもウンベルトはジョゼの行動を半ば無視して、ファシスト評議会から元帥の地位を与えられるなど結びつきを深めた。後者に関しては、若い頃から多くの噂で知られ、同じく両性愛の噂の合ったルキノ・ヴィスコンティ伯爵や同性愛者の俳優ジャン・マレーとの親密な間柄が報じられたこともあった。

父とファシスト内の王党派が王政廃止を危惧してクーデターを起こすと、ナチス・ドイツの支援を受けたムッソリーニがイタリア社会共和国を樹立、イタリア王国は南部に追いやられ内戦状態に陥った。混迷の一途を辿る王国を前に、父が責任を取ってエジプトに隠遁すると、ウンベルトは摂政として連合国との交渉と自由イタリア軍の組織化を行い、戦争の早期終結に向けて懸命に努力した。ウンベルトの努力は戦後、反ファシスト勢力や戦勝国(イギリス・アメリカ)からサヴォイア王家への信頼を取り戻す大きな功績となった。
即位アオスタ公アメデーオの結婚式にて(1964年)

第二次世界大戦後、新たに成立したイタリア臨時政府はファシスト政権の清算を開始した。その過程で、王家のファシストへの協力が批判される流れとなり、二度と同じ過ちを繰り返さぬように王政を廃止するべきという声が左派勢力から展開された。これを受けて国民投票による是非が問われることになると、ここでようやくヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が退位するという不名誉を渋々ながら受け入れ、1946年5月9日にウンベルトは第4代イタリア国王ウンベルト2世としてクイリナーレ宮殿で戴冠した。

しかし、これは機を逸した行動であり、6月2日に国民投票を控えた状況下での即位は大勢に大きな影響を発揮できなかった。加えて左派勢力は、様々なネガティブキャンペーンを王家に対して行った。

その中で最も著名なものはウンベルトの両性愛問題についての指摘で、中にはファシストへの協力はそうした疑惑を抑えられていた故だとも言われた。ウンベルトは周囲の取り巻きに白百合の指輪を送る習慣があり、これも偏向した形で曲解された。王妃となったマリーア・ジョゼとの不仲もこうした噂に拍車をかけたが、実際にはウンベルトの両性愛を決定付ける証拠は何も出てこなかった。こうした不利な状況下ながら、開票結果は廃止54%・存続46%の僅差で、王政廃止と共和制移行が決定した。
亡命

王党派は、国王支持者が伝統的に多い軍人たちが完全な復員を終えない中での投票は不当と声明したが、臨時政府は強制的にウンベルト2世らサヴォイア家を国外追放処分にした。ポルトガルに亡命するウンベルト2世(1946年)

ウンベルト2世は6月13日にイタリアを去り、アントニオ・サラザール政権下のポルトガルへ亡命し、37年間そこで暮らすことになる。途中で子供たちを連れてマリーア・ジョゼが別居するなど騒動があったものの、ポルトガルの上流社会との交流を経ながら穏やかな余生を過ごした。近代以降に大きくその数を減らしていった欧州貴族の中でも、古い血筋に生まれたウンベルトは「欧州の祖父」と綽名された。
崩御オートコンブ修道院にあるウンベルト2世の墓

ウンベルトは1983年3月18日に、スイスのジュネーヴ滞在中に没した。アレッサンドロ・ペルティーニ大統領は、ウンベルトを国内で埋葬することも検討していたが、結局、本人の遺言に従ってサヴォイア家発祥の地であるサヴォワ1860年サルデーニャ王国からフランス帝国へイタリア統一支援の見返りに割譲される)のオートコンブ修道院に埋葬された。イタリア政府は葬儀に代表団を派遣せず、同国の公共放送も葬儀の模様を中継しなかった。
評価

上記の出来事から悲劇の国王として語られる事が多い。

フェルッチョ・パッリは「ウンベルト2世はサヴォイア家で素晴らしい国王になれるはずだった」と語っている[1]
家系
祖先

家祖:
ウンベルト1世ビアンカマーノ - サヴォイア伯

祖父

父方:ウンベルト1世 - イタリア王

母方:ニコラ1世 - モンテネグロ王


祖母

父方:マルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ - ジェノヴァ公女、サヴォイア家傍系

母方:ミレナ・ヴコティッチ - ペータル・ヴコティッチ公女


家族少年時代の王家肖像

父:ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 - イタリア王

母:エレナ - モンテネグロ王女

姉:ヨランダ・マルゲリータ - ベールゴロ伯爵夫人

姉:マファルダ - ヘッセン=カッセル方伯夫人

妹:ジョヴァンナ - ブルガリア王妃

妹:マリーア・フランチェスカ - パルマ公子夫人

子女

妻:
マリーア・ジョゼ - ベルギー王女

長女:マリーア・ピア(1934年 - ) - ユーゴスラビア王子アレクサンダル夫人、後にパルマ公子ミシェル夫人

長男:ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア(1937年 - 2024年) - イタリア王太子


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